自分の命 一人称の死
自分の命は自分のもの
この当たり前のことを忘れてはいけない。 人は他人の言うことにどうしても気をとられて影響を受ける傾向がある。 命の尊厳という言葉を頻繁に聞く。 世間ではこの言葉があたかも至高の真理であるかのようにまかり通っている。 このため、だれかが自殺すると聞くと、命を粗末にして勿体ない、家族がかわいそうだと批判する。
本人の死・家族の死・他人の死
死については3つの死がある。 一人称の死、二人称の死、三人称の死である(フランスの哲学者ジャンケレヴィッチ)。 一人称の死とは本人の死である。 二人称の死は家族の死である。 三人称の死とは他人の死である。 他人の死とは、新聞などで伝えているだれか知らない人の死で、通常とくに関心を呼ぶものではない。 二人称の死とは自分の家族の死で、その死に直面すると、本人にもっと生きて欲しかったと家族が嘆き悲しむ辛い死である。 一人称の本人の死は、普通は病気で苦しみながら死ぬ辛い死である。 病気で苦しむのは本人で、他人ではない。 一生懸命介護にあたる家族は本人の苦しむ姿を見て身を切られる辛い思いをするが、同情し共感することはできるとしても、本人の肉体的・精神的苦しみを100%理解できるとは限らない。 なぜなら人間の命はその本人の命であって、他の誰の命でもないからである。
自由のない本人の死
人の命は「地球の神」から授かった命であるから、その人が全力で守り、生きがいを持って育て、十分育てたと信じ肉体的に限界が来たと感じた時に、命と別れる運命が迫ってくる。 自分は今までの人生でやるべきことは全力を尽くしてやって思い残すことはない、病気になって他人に迷惑をかけて生き長らえるよりは、自分が授かった命を責任をもって閉じようと考えることは、良識ある考え方で合理的である。 、
この論理に従って然るべき時が来たと思う時に、自死しようと考えたとする。 一人称の死である。 そのように決心した時に愛しい家族や友人とて徹底的に話し合って了解をとり、遺言書を書いて別れの挨拶をしてから、「納得死」したとする。 これは二人称の死に対する配慮である。 三人称の死は、自分のことをよく知らない第三者にとっての死であるから、特に気にすることはない。
以上死には3つの類型があるが、世の中に三人称の死や二人称の死に関する美談が溢れており、死に直面した本人や介護者の苦闘の様子がいかに尊い行動かとして尊敬の念をもって報じられている。 その反動で自殺者に対して冷たい目が向けられている。 世の中には重い障害をかかえながら必死に生きようと努力している者がいる。 この人たちが自分の尊い命を簡単に捨てて、家族などに迷惑をかける行為は道義に反すると考えても不思議はない。 しかし他人には他人の考え方があるから、いかんともしがたい難しい問題である。
西洋思想の影響
ところで自分で命を縮めるという行為に対して、第三者が批判的な意見を持つにいった原因の一つに、どうも宗教の教義に起因があるらしい。 調べてみるとキリスト教では、人間は神の姿に似て創られたもので、人間は勝手に命を扱ってはいけないということになっている。 古代に哲学者アリストテレスは、人間の命は動物のものと違って尊いと規定し、やはり古代のギリシャの医者ヒポクラテスは、人為的に死を招いてはならないと神に誓いを立てている。 こうした西洋の伝統が現代の世界の思想や諸制度の根底にあって命を縮めることは道義的な悪となっている。
虚構の中の私たち
一方、イスラエルの人類史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、『サピエンス全史』(柴田裕之訳、河出書房新社)で、20万年前に東アフリカで生まれたホモ・サピエンスが、7万年前にアフリカを出てユーラシア大陸へ進出した。 その時に言葉を身に付けて、生活上の話題や神話という虚構(フィクション)を作るという認知革命が起った。 その革命により人々はお互いにつながって共同体を作り、その共同体の力でそれ以前にユーラシア大陸へ進出していたネアンデルタール人たち他の人類を3万年前までに絶滅し、今日に至るサピエンスの独立王国を作ったとしている。 そのハラリ氏が人類史のなかで述べている虚構とは、日常の話題や神話や宗教である。
我々研究会では、地球上の全ての宗教や神は人間がつくった「人間の神々」であるとの仮説を持っているが、これはハラリ氏の虚構と一脈通じるものがある。 キリスト教のような一神教や仏教のような多神教や神道のようなアニミズムは全て人間が作った仮説である。 この仮説に基いて出来上っている現代の道徳や倫理や制度も仮説であり虚構である。 仮説は完全に検証されないと、真理とは言えない。 現在、世間では死に関するタブーが出来ているが、これも仮説である。 安楽死に関する我々の研究が作り出すものも仮説である。 我々は自分たちの仮説を強く提唱して、現在安楽死(積極的安楽死)の合法化に対する国民の賛同を得るため努力をすることにした。 そして我々の仮説が説得力をもつよう大勢の会員を集めて、「数の力」で影響力を強め、多数決原理にもとづき安楽死が常識となるように努力する。
死に対して精いっぱい生き抜きたい
積極的安楽死が公認されれば日本国民の7割の望みが達成されて、無数という多人数の患者や介護者や医師などの悩みを救うことになるばかりではない。 現在官民を合わせて医療技術の発達のお陰で日本人は将来100歳まで健康寿命を伸ばすことができるという長寿社会の虚構が宣伝されている。 その一方、認知症患者が450万人もいて、2025年には65歳以上の高齢者の7人に1人が認知症になるという予測がある。 医療関係者は医療保険制度の破綻を憂いているし、長寿者の増加による年金制度膨張など福祉財源が枯渇することが予想されている。 それにもかかわらず政治のポピュリズムによりこの重大問題が先送りになっている。 このまま行けばいずれ福祉財政の破綻に起因する大恐慌が起こるに違いない。 専門家を含めて世人は危機が来ることを予想しながら、何とかなると考えているが、いざ大問題が起こると想定外の事件だとして、事後対策に狂奔することになる。
死ぬべき時期が来たと判断した時に身辺を整理して心置きなく安息死することができるという制度を整えておけば、その時が来るまで精一杯生き抜き、この世から未練なく去ることができる。 そのようになれば高齢者も病人も病気で苦しみながら死ぬ恐怖から解放され、最後の瞬間まで活き活きと生きることができれば、すべての人が若返り楽観的な社会になる。
早くそういう楽しい社会を実現したい。