私の安息死研究会

死の美学 終わりよければすべてよし

 ~永久睡眠薬による死~
 

山田太郎(79歳)穏やかな日常のはじまり

2021年5月31日日本国埼玉県川越市の住民である山田太郎は定刻の6時に目が覚めると、不自由になった左足のサポーターを取り換えながら、寝不足にもかかわらずすっきりした頭で今日1日の予定を考える。 9時になったら息子と娘の二人に簡単な電子メールを送る。 10時になったら近所の調剤薬局へ行って、厚生省の承認印の付いた事前指示書(リビングウイル)を提出して永久睡眠剤「神の国」を購入する。 終日メールや手紙などの通信関係の書類や証明書や権利関係の書類など身辺整理を行う。 夜9時になると息子や娘に電話をした後、ここ1週間の予定を書いて送る。

旅で自分の気持ちを確認

翌朝小旅行の旅支度をした上で近所の駅から電車に乗り、新宿経由で長野へ向かう。 午後に上高地へ到着したら予約をしたホテルへ入って旅装を解く。 天候に恵まれた次の2日間、穂高や槍ヶ岳を見ながら、若い時に親子4人で山登りをしたことなどを懐かしく思い返しながら、終日山麓を心ゆくまで散策する。 3日たって最後の旅で気持ちの整理ができたことを確認してから、子どもたちへメールを送って、孫たちを含めて全員で会食をする日程を打ち合わせる。

最後の時を迎える

予定の日に小学生と中学生の孫を含む5人で会食を楽しむ。 太郎は色々楽しい話題や自分の経験した様々な話をユーモアを交えながら話してみんなを喜ばせる。 別れる時に息子と娘に手短に最後の予定を確認し、「会うは別れの始めなり」の言葉をかみしめながら別れを告げる。 翌朝、太郎はリビングウイルを枕元において、計画の通り永久睡眠剤を呑んでこの世を去る。

投書より

これは仮説で一つの事例である。 このようにして人間が、野生の象などのように、自分の死期を知って自由に死ぬことができれば素晴らしい。 橋田壽賀子氏が昨年文藝春秋紙上で発表した「安楽死で死なせて下さい」という発言に対して、インターネット上で無数といってよい沢山の投書が寄せられた。 その中に次のような投書があった。

「母も叔父も叔母も認知症で、本人は何もわからないままに恥だけを垂れ流し周りに迷惑をかけ続け、亡くなった時はみんなに喜ばれ・・・。

そんな終わり方は絶対に避けたい。 それまで頑張って生きてきても、痴呆だった最後だけがみんなの記憶に残る・・・。 生きる権利があるなら死を自分で決める権利も認めてほしい。 安楽死早く法制化してください」。

「今年、還暦を迎えるがん患者です。 今、厳しい選択の上にいます。 治療を続けるか、もしくは治療を全て断り、残された日を自分らしく生きるかの選択です。 がんは再発を繰り返す病気です。 治療を何度も続けると、体に後遺症が残り、介護なしに生活できなくなります。 同い年の妻とも何度も話し合いました。 私は、これから先、治療を続けて生き永らえたとしても妻に、ずっと世話になるのは申し訳なく思ってます。 長年、寄り添い、愛してきた妻です。 苦労を掛けたくありません。 しかし、治療を断ったとして、着実に衰えて来る体とどう向き合うのか、増大するであろう痛みに耐えて正気を保って行けるのか、自信が持てません。

私としては、自分らしく生きて、身の周りの事や判断ができる間に、自分の死も決めれたらと思ってます。 居なくなって寂しい、悲しいはいずれ、時が解決してくれます。 迷惑や実害が継続しません。 多分その方が、周りの人のためにも良い事だと思っています」。

安楽死が認められないのは、ナゼ?

上記の投書のなかで、「本人は何もわからないままに恥だけを垂れ流し周りに迷惑をかけ続け」、「亡くなった時はみんなに喜ばれ、居なくなって寂しい、悲しいはいずれ、時が解決してくれます」と伝えている。 私が冒頭に紹介した仮説はこのような苦悩に満ちた訴えに衝撃を受けて作った架空の事例である。 橋田壽賀子談を掲載した文藝春秋誌の安楽死特集のアンケーとのなかで、「生きることは選べなくても、死ぬときは、自分らしくと思います(澤地久枝)」という回答があったが、その他にも、生まれる時は何もわからずに生まれてきたが、死ぬ時は自分の意思にもとづいて死にたい、といった発言が沢山ある。 こうした切実で具体的な訴えの他に、様々な調査によって人びとの7割の人が安楽死を望んでいる事実があるが、どうして安楽死が認められないのだろうか。

安楽死は所詮自殺である。 自分一人で絶食して干死したり、海へ飛び込んで入水死する自死・自殺は刑法に関しては無罪である。 しかしキリスト教では自殺は禁止されている。 旧約聖書で、人間は神に似せて造られ「神の像」を宿しているがゆえに人の命は尊く、人間には不可侵のものであるというヘブライズム「神の像(Imago Dei)」により命の不可侵性が規定されている。 また、偉大な哲学者であるアリストテレスやカントは人間の命の本質を人格と定義し、人格は理性と道徳性を持ち、自律しているがゆえに「尊厳」を有しているとして、「人間の命の尊厳」を提唱した。 このように古代ギリシャ起源の「人間の尊厳」とキリスト教・ヘブライズム起源の「神の像(Imago Dei)」の二つの流れが基礎となって西洋の道徳的規範が創造されてきた(森岡正博2014年)。 この西洋の「命の尊厳」という規範が、現在の我が国の道徳や法律を規制しており、安楽死を禁じている。

以上のキリスト的な「神の像」による人間の命の不可侵性やアリストテレスなどの「命の尊厳」論は、悠久の昔や紀元前の人間生活の中から生まれた思想であるが、21世紀の現在、科学技術が発達して、天動説がひっくり返され、人間が微生物から始まった生物進化の結果生まれたサルの子孫であるという最新知識をもつ現代人に通用する思想であるかどうか。 この点をすべての先入観を排したゼロベースの視点に立って検証する必要がある。 例えば、キリスト教を始めすべての宗教は人間が考えた産物で、この地球上に人間という生き物が存在しなければ、エホバやアラーの神も天照大神も有りえない。 したがって世界中のすべての神々は人間が作った神として「人間の神」と称すべきであろう。 しかし、それはそれとして、ではこの宇宙のなかで神は存在しないのだろうか。 では一体、地球上の物や生き物はだれがつくったのだろうか。 地球や生き物が存在するという事実は、やはり地球や地球上の全てをつくった創造主が居ることを示している。 したがって我々はこの天地創造の創造主を「地球の神」と名づけよう。

人間に組み込まれた3つの基本遺伝子

この「地球の神」は地球を造り、その地球上で様々な物質や生き物をつくった。 最初の有機化合物はバクテリアだが、「地球の神」はこの最初の命に3つの遺伝子を埋め込んだ。 「生の遺伝子」、「性の遺伝子」と「死の遺伝子」である。 この3つの遺伝子の活動により生き物の生成発展のプロセスが始まった。 命のなかの遺伝子の働きによって新陳代謝が繰り返えされ、選択的進化を遂げて、生き物はバクテリアから植物、動物へと進化を遂げてついに人間に至った(田沼靖一「死の遺伝子からみた未来」『死生学(3)』東京大学出版会、2008年)

このように、進化発展のプログラムは「死の遺伝子」で貫かれている。 「地球の神」はどうして「生の遺伝子」の他に「死の遺伝子」を生命の中に組み込んだのだろうか。 この「死の遺伝子」による駆動軸に貫かれて「自然死」の運命を担わされた人間は、どのような役割を果たすべきなのであろうか。 この根源的な謎について有史以来数々の哲学者が考えてきた。 そしてひとつの答えが、死が生を支えているという結論である。 人間は「自然死」することによって、生きる夢を与えられているのである。 もし死がなかったら、例えば200年も300年も人間が生きられるとしたら、生きていることが空虚で無意味に感じられるだろう。 死があって初めて、人間は一生の夢を見ることが許されているのである。 また、遺伝子からみれば、地球の原初から延々と続いてきた進化の旅のなかに埋め込まれたひとつの生命体は、人間にしろ他の動物にしろ、一瞬の通過点に過ぎない。 しかし有性生殖をする人間を含むすべての動物には、二度と同じ遺伝子の組成は生まれてこない。 したがって人間は唯一無二のかけがえのない価値のある一生という夢を遺伝子から与えられているというべきである(田沼靖一)。 同時に、次の世代に何を残すかということをしっかり考える必要がある。 人の一生を通じて果たされた様々な努力が残された人々の心の中に記憶・思い出として残される。 残された人たちのために悔いのない価値ある思い出を残すことが人に与えられた義務ではないだろうか。

超高齢社会パラダイムシフト

ここで観方をかえて、人間の歴史を振り返ってみると、西暦紀元1年頃の人間の人口は2億人だった。 そして1800年の第一次産業革命が起こった時に人口は10億人に達した。 8億人増えるのに1800年かかった。 200年後の2000年に人口は75億人へ急上昇した。 その急発展にもとづき、人間社会の様相が抜本的に変わり、20世紀の情報革命を経た21世紀の現在、日本人の生活も大きく変わった。 人生50歳といわれてきた寿命が大幅に伸びて、現在80歳を超えてなお超高齢社会へ向かって伸びつつある。 ある高名な歯科医師の話によると、人間の歯は60歳まで保つように出来ているという。 ということは、人間の命を保つために必要な食物を取り込む一番大事な歯の耐用年数が60歳であるから、現在のように80歳を超えて長寿をすることは賞味期限が切れた食べ物のように体力の品質劣化が始まっても不思議がない。 その品質劣化の象徴がガンや認知症などの高齢者病である。 さらに高齢者が増えつつあるという体力的な内部崩壊現象の他に、医療費や年金の増加による国家財政への負担が増大しつつある。

自分の「生」と「死」への自由獲得

今年元旦の日本経済新聞では、 Tech2050新幸福論「人類」問い直す、 常識通じぬ未来へという見出しのもとに、 2050年ごろAIが人間の知性を超えるとして、 シンギュライリティ時代の到来を予想している。 そしてこれまでの30年よりもこれからの30年の方が技術の進化は加速するとして、 2050年ごろにはエレベーターで宇宙まで到達するとか、 血液に入ったロボがガンなどの病気を退治するという事例を述べている。 そして現在でも人間の細胞のiPSから作った「人口脳」が25~38週の胎児の脳と似た脳波を出すという人工による命の誕生が確認されている。 このようにして現在から30年もすれば人間社会電脳化の大革命が到来するものと予想される。 そういう時代に「人間の神」や古代の哲学者が提唱した命の尊厳にもとづく道徳や倫理が、この人類の大革命の影響を受けて修正せずに済むことは考えにくい。 それでなくても、ここ10年、20年の間に高齢化の進展による国の財政の破綻は免れない。 舵取りのタイミングを逃すと、「地球の神」の機嫌を損ねて深刻な大災難が降りかかって来るかもしれない。

また同じ日本経済新聞1月3日号のTech2050新幸福論で将来寿命は150歳まで伸びるという研究者たちの話を載せている。 様々な医療技術を利用して寿命を伸ばすことができるかもしれないが、所詮「死の遺伝子」が最後に勝利を収めて死が訪れることになる。 この際高度な治療にどれだけのコストがかかるか、国の医療保険財政がその高額な治療費の負担に耐えることができるか、また高額治療費を払うことができる高所得者とそうでない中級・貧困層の貧富の差が拡大する社会をどう考えるのかが問われる。

冒頭で紹介したように、人々が自由に健康保険で永久睡眠剤を買うことができ、自分の死期を自由に選ぶことができたら、危機迫る電脳化大革命が到来するまでに間に合うように、楽しく明るく過ごすことができる自然な社会を作ることができるのではないだろうか。 そのためには固陋な先入観にとらわれず、素直で純粋な気持ちで、心のふるさとである死後の世界へ思いをはせながら、人生を最後まで生き生きと送り続けることができるように、いますぐ環境整備に取り掛かるべきではなかろうか。

研究会テーマ発表

  1. HOME
  2. なぜ私の安息死研究か
  3. 私の命は私のもの
  4. 自分の命 一人称の死
  5. 安楽死で死なせてください
  6. 肉体的治療と統合的治療
  7. 死の美学

    ~終わりよければすべてよし~

  8. 人間の神と地球の神
  9. 「サピエンス全史」と地球の神
  10. 安楽死研究遍歴の旅
  11. 研究ノート 安楽死合法化の戦略論
  12. 安楽死参考文献
  13. 性悪説で作られた刑法202条