私の安息死研究会

肉体的医療と統合的医療

 

橋田壽賀子氏が文藝春秋の雑誌や文春新書などで「安楽死で死なせて下さい」と訴えて大変な反響を呼んだ。 日本国民で安楽死を望んでいる人が7割もいるのに、どうして安楽死(積極的)が合法化されないのか不思議である。

ただし、厳密なことを言うと安楽死は合法的に実行できる。 先般、実存哲学者の西部邁氏が多摩川で入水して、「自裁死」した。 これは娘さんの納得の上で実行された「確信死」であり、安楽死であった。 これは換言すれば自殺・自死でもあった。 自死は刑法上無罪である。 だから彼の安楽死は無罪である。 ジャーナリストが、西部氏の友人二人が彼の自死をほう助したのではないかと言わんばかりに無思慮な報道をしていたが、刑法202条で規定している殺人ほう助罪は、悪意に基づいて行われる介助行為を禁ずるものだから、本来本件を刑法で裁くのは越権行為である。

このように自殺は無罪であるが、宗教的な戒律は別としても、親族や周りの人々に迷惑をかけるから白い目で見られるという社会的心理的制約がある。 しかし家族ともしっかり話し合い、周りの方々に迷惑をかけないよう金銭的な配慮も十分行った上での「納得死」であれば、だれからも非難されることはない。 したってガス自殺しても周りへの配慮をしっかり行っておけば罪にはならない。

問題は刑法の殺人罪199条と自殺ほう助罪202条である。 回復の可能性を拒否された末期ガンの患者が身を切るような激痛で苦しみながら死なせて欲しいと訴え、本人や家族が死なせてやってほしいと嘆願しても、医師は患者を注射で死なせることができない。 刑法202条のせいで、医師も患者や家族と自分の良心との間に板挟みになりながら患者に手を付けることができず、苦しんでいる。

橋田壽賀子氏の「安楽死で死なせて下さい」という発言に対する投書の中に「高齢者医療に苦慮している公共団体や医師会が一部の反対を恐れて黙っているのは卑怯な態度だと思います。 自分のことは自分で決められる社会を望んでいます」という投書があった。 この投書に応えるため筆者たちは、現状の医療と命の問題を本質まで溯って研究するという基本方針を定めて研究を始めた。 筆者たち数人は、医療と命の問題については全くの素人である。 したがって頭の中には専門知識は全然入っていない。 むしろその空の頭をそのままにして、筆者たちは心頭を滅却して医療の状況を本質にまで遡って吟味した。 その結果二つの基本的な問題が浮かび上がってきた。

その一つが上記の問題にも関係があるが、刑法と医療・福祉との基本的な立場の違いである。 刑法は基本的には性悪説に基づいて構築されており、悪質な行為を罰することが主目的となっている。 人間の金銭欲や権力欲が渦巻いている競争社会の経済界や政治の世界では性悪説に基づく刑法が厳密に運用されるのは当然であろう。 ところが刑法はこの性質のため善意に基づいて実行された行為を判断する場合に機能不全を起こす弱点をもっている。 基本的に善意や博愛が行動の基礎になっている医療や福祉の世界では、性悪説に基づく刑法はこのため過剰反応を起こしやすい。 上記の投書が訴えるように、人間の命を扱う医療や福祉の現場ではそれぞれの実情に合わせて、弾力的に法的措置を適用する必要があるのではなかろうか。

もう一つの問題は、「肉体的医療」の問題である。 古代ギリシャのヒポクラテスに始まって現代にいたるまで、医療の世界では医者が主導権をもって治療に当たるパターナリズムが主体となってきた。 近年患者が自らの自由意志に基づいて医者と対等に話し合うインフォームドコンセントの制度が導入されて、医療の世界でも民主化が始まっているが、それ以前の大学でパターナリスティックな教育を受けてきた医療従事者の中には患者の気持ちをあまり重視しない傾向が残っていても不思議がない。 病気を治すことには熱心だが、患者の精神的苦しみにそれほど関心を払わない「肉体的医療」がまだ主流となっているような気がする。 最近はやりのインフォームドコンセントにおいてもどれほど患者の精神的反応に心を砕いているのだろうか。 病状の診断結果をただ正確に報告するだけで、その報告を患者がどのように受け止め、その報告によって患者の精神的活動や生き甲斐がどのように変化していくのかについて関心を払っていなのではないか。 また、そこまで踏み込むのは医者の義務ではないという「肉体的医療」の考え方が普通なのだろうか。 従来、肉体の救済を目的とする医療と魂の救済を目的とする宗教は互いに役割を分担してきたが、今後の医療は病気を治す肉体的医療から宗教の分野へ一歩踏み出した魂を救済する「精神的医療」を包摂した「統合的医療」へと進化する必要があるのではないだろうか。 そして医師は医術だけでなく、生死に関するカウンセラーとして魂の救済にも貢献すべきではないだろうか。 また、そのための教育や資格制度を整備する必要があるのではないだろうか。

ただし、これらの原則論は専門家のご努力に期待するとして、筆者らは現在諸々の規制の糸でがんじがらめに編み上げられた医療現場の網に瑕がないか徹底的に調べた。 その結果大きな穴があるのを発見した。 認知症の穴である。 現在わが国には450万人の認知症患者がいて、2025年にこの人数が700万人を超え、軽度認知症者(MCI)の400万人を加えると1300万人に達して、65歳以上の高齢者の3人に1人が認知症患者とその予備軍となるという厚労省の推計がある。   

人間は肉体と精神から成るといわれている。 脳死は精神の死で、現在では人間の死として扱われ、肉体から臓器を摘出しても罪とはならない。 家族の顔もわからず、理性も自己意識もなくなった完全認知症患者は「精神死」の状態であり、「人間死」によりもはや人間ではない。 牛や馬を殺して食べても罪にならないように、だれかが完全認知症の患者を注射や薬で死なせても殺人にはならないという理屈になる。

アリストテレス以来人間は他の動物より一段上の存在で、その理由は人間にしか備わっていない理性と自己意識にあると言われてきた。 最近認知症が激増してきたが、この認知症に罹ると記憶力も理性もなくなり、自分の家族の顔も分からなくなる。 人間の尊厳の基である理性と自己意識がなくなると、最近の環境倫理学者シンガーなどがパーソンであると言っているチンパンジー以下の存在になる。 確かに、わが家のポチなどは子どもの3歳くらいの知性があり、名前を呼ぶと尻尾を振って自己意識があることをはっきり知らせてくれる。 このような様子と比較すると、完全認知症患者はチンパンジーや犬や牛以下の存在となる。

この論理に基づけば、医者が完全認知症の患者を、本人と家族の要請により善意に基づいて注射で死なせても、いわば「動物死」になるので、刑法の対象にはならないということになる。 「精神死」の完全認知症の患者には自己意識はないから、本人が健康な時に遺言書(事前通知書、リビングウイル)を書いて自死の願いを明示しておけば、医師に被害が及ぶことはない。 しかしこの論理は現状ではあくまでも仮説にすぎない。 実際に、医者がリビングウイルを残した完全認知症の患者に善意で注射をして死なせた後で、その医師が自殺ほう助の責任を問われて裁判になるような事件が起こるかもしれない。 しかしその場合医師は法廷で堂々と患者本人の強い希望により善意に基づいて自死の手伝いをしたと主張すればよい。 そして納得した上で死に行く本人の「確信死」を見送った家族たちが、どういうようにして本人が自分の人生の幕を引いて行ったかを具体的に証明すれば、医師の善意と家族たちの感謝の念が明らかになり、違法性阻却の判決が出る可能性があるだろう。

実際に、違法性阻却の判決がいくつも出てくると安楽死に対する世間の観方が変わると想像される。 無理に成文法で安楽死を法制化することを試みるよりも、このような帰納的な方法で判例を一つずつ積み重ねて慣習法を作っていくやり方が実際的で効果があると考えられる。 数年前に国会議員団が共同で安楽死法案を国会へ上程しようとしたが、死の問題はあくまでも個人の問題であるため法律によって規制するのは個人的主権の侵害であるとして猛反対を受けて廃案となった経緯がある。 とりあえず認知症を対象として安楽死の穴を空け、その穴を植物人間などへ徐々に広げて安楽死全体を対象として合法化することを実現することができれば、現在医療や介護に要している個人的、行政的、かつ経済的・精神的な重圧を軽減することに役立つはずである。

ペストが猛威を振るったヨーロッパ中世では「メメントモリ=死を忘れるな」という警句が機会あるたびに語られた。 我々日本人も個人個人が自分の死と直接向き合って自分の人生に幕を下ろすまでに何をすべきかよく考えておく必要があるだろう。 そして意識をなくすまでに、家族や友人たちとよく話し合って、リビングウイルを書いて安楽死する方法を決めておく必要がある。 平家物語において壇ノ浦の戦いの勝敗が決した時に平家の総大将の平知盛は「見るべきほどの事は見つ、いまや自害せん!」という辞世の句を残して入水した。 これは精一杯役割を果たした後に安息を求める「安息死」であった。 スイスの心理学者ユングは人の死に対する態度には2つの方向性があるとして、一つは、自分の死を恐怖する態度と、もう一つは早くから死ぬ覚悟のできている従容とした態度であると言っている。 後者の場合、老年期になっても生き生きと生きることができるが、出来ていない人は死を恐れながら死んでいくと説明している。 筆者もこのように「安息死」をしたいものだと考えている。

研究会テーマ発表

  1. HOME
  2. なぜ私の安息死研究か
  3. 私の命は私のもの
  4. 自分の命 一人称の死
  5. 安楽死で死なせてください
  6. 肉体的治療と統合的治療
  7. 死の美学

    ~終わりよければすべてよし~

  8. 人間の神と地球の神
  9. 「サピエンス全史」と地球の神
  10. 安楽死研究遍歴の旅
  11. 研究ノート 安楽死合法化の戦略論
  12. 安楽死参考文献
  13. 性悪説で作られた刑法202条