私の安息死研究会

研究ノート  安楽死合法化の戦略論

 

「私の安息死研究」に関する経営戦略論

   NPO法人私の安息死研究会*   

理事長 酒井一郎      

   元田園調布学園大学人間福祉学部教授

目次

1.橋田寿賀子氏の安楽死宣言

  1)死なせてください

  2)文芸春秋安楽死アンケート

  3)読者の反応

2.安楽死を巡る状況

  1)安楽死と尊厳死

  2)安楽死に関する法的規制

  3)海外の安楽死を巡る状況

3.安楽死問題解決案(仮設)

1)安息死解決案の目標

2)解決案の実行(NPO法人研究会設立)

 4.戦略目標の検証

  1)解決案の法的側面からの検証

2)解決案の道義的見地からの検証

 (1)認知症について

 (2)命の神聖さ

 (3)ヒポクラテスの誓い

 (4)生活の質(QOL)

 (5)生命の尊厳

 (6)よく生きる

 (7)人格形成と発展段階

 (8)命の価値

 (9)生き物の命

 (10)自己決定権

5.経営戦略論的考察

  1)人それぞれの死生観と生き甲斐

2)終末期治療における肉体的苦痛と精神的苦悩

3)完全認知症と人格の崩壊

6.総括・提案

注:

1.初稿 2017年10月21日

2稿 2018年3月15日

3稿 2018年11月18日

2.「私の安息死」の英文表記: My Sabbath Death = MSD

3.商標登記(申請済み)

  ①「私の安息死」 2018年10月登録確定

  ②「精神死」   2018年11月登録確定

  ③「確信死」

  ④「肉体的医療」

はじめに

80歳代を含む後期高齢者十数人が集まって「安楽死を考える会」を作って意見を交換することを始めたところ、文芸春秋29年3月号で文芸春秋編集部が「大特集 安楽死は是か非か」というタイトルの特集を組み、国内の著名人に対してアンケート調査を行ったことを知った。 この調査に対して60名から回答があった。 そのうち53人(88%)が何らかの安楽死(本稿第1章参照)に賛成で、残りの8人が反対か回答保留であった。 その他の朝日新聞や週刊文春の同じような調査でも、大体7割の人が安楽死に賛成している。 しかしわが国の現実は、安楽死のうち消極的安楽死(尊厳死)は認めるが、積極的安楽死は認めないという裁判の判決によって規制されている。 両者の違いは、病気の回復が期待できない状態であることは同じだが、余命いくばくもない場合と命が終わるまでまだ時間がある場合によって分かれる。 前者が尊厳死で、後者が積極的安楽死である。

 後出の第1章第3節で紹介しているが、「みんなの介護ニュース」ウエブページに掲載されたジャーナリスト橘玲氏の特別寄稿『日本人の7割以上が安楽死に賛成しているのに、法律で認められない理由とは?』に対して読者から100件以上の意見が投稿された。 その投稿者の悲惨な報告を読むと、末期の病床で塗炭の苦しみを味わっている患者ややりきれない思いを抱きながら介護をしている人たちの苦悩が読む者の胸に切々と迫ってくる。 そして人生の最後にどうしてこのように苦しみながら死んでいかなければならないのかという命の実存的な疑問が沸いてくる。 何かの宗教を信じている信者は、人の命は神聖で奪うことは許されないとか、現生の苦しみは死んで来世で償われると考えることによって、末期の苦しみに意味を見出して死ぬことに堪えることができるが、宗教を信じない者はどうすれば、どう考えればよいのだろうか。

 このような人間存在の基本にかかわる生死の問題を宗教や世間の慣行や通念にとらわれず自由な立場で徹底的に死生学の研究を始めることを決定し、我々は予備調査の結果に基づき、NPO法人私の安息死研究会を設立した。 この研究会の目的は、単なる理論的学術的な神学論争を行うことではなく、素人が集まって、生きて死にゆく宿命を担った人間主体の立場から、世の中の様々な法律的・医学的・倫理的専門知識や慣行にとらわれず、生死の行動主体として遠慮せず臆さずに発言して、病床で苦しみ、末期の病床で肉体的精神的な苦しみで呻吟している人たちのために少しでも役立つべく勇気をもって行動することにある。 そのため当研究会は理論的研究はほどほどにして、実践的な戦略目標を掲げ、目的を達成するための方策・作戦を考え実行する行動集団として活動することを決意している。 この行動主義を示唆するため我々の研究ノートのタイトルは「私の安息死研究に関する経営戦略論」となっている。 「私の」に関しては本論を参照されたい。

最後に、我々は安楽死を合法的に導入することを目的としているが、ただ死ねばよいというのではなく、人生を精一杯生き抜いた者が死を目前にして自分の人生の幕を引く引き方を考える際につくり上げた人生の価値を重視する立場をとる。 したがって人生をのらりくらりと気楽に過ごしたり、他人や社会へ害を与えながら意地汚く生きてきた者が、勝手に死のうとする「気楽死」には断固反対である。 「見るべきほどの事は見つ、いまや自害せん」という言葉は、壇ノ浦の戦いに敗れ平家一門の運命を最後まで見届けて責任を果たし自害した総帥平知盛が残した辞世の句であるが、人生の重みを感じさせる言葉で、この死に方を我々は「安息死」と名づけ、本研究のキーワードとしたい。

本論

1. 橋田壽賀子氏の安楽死宣言

1)安楽死で死なせてください

日本を代表する脚本家・橋田壽賀子氏が2017年8月20日に発行された文春新書で『安楽死で死なせてください』というタイトルで安楽死に関する自分の見解を発表した。 同書の内容は次のような構成になっている。

第1章 戦争で知った命の「軽さ」

第2章 命とは誰のものか    

第3章 人間の尊厳とは何だろう 

第4章 私は安楽死で死にたい  

第5章 死に方を選べる社会を  

第6章 20歳になったら、死を見つめよう

 

 橋田氏は文春新書に上記のような発表を行う前に、文芸春秋2016年12月号と2017年3月号に「私の問題提起はおかしいですか」というタイトルで安楽死の問題提起をしている。 我々の研究会は同氏の発言が起爆剤となってスタートした。

2)文芸春秋安楽死アンケート

2017年3月号の文芸春秋編集部が「大特集 安楽死は是か非か」というタイトルのアンケート調査を著名人に対して実施した。 そのアンケートの集計結果によれば、回答者60名のうち33人(55%)が安楽死に賛成、20人(33%)が尊厳死に限り賛成、安楽死、尊厳死に反対4人(7%)、残りの3人(5%)が選ばずであった。 このアンケートの設問は、①安楽死に賛成、②尊厳死に限り賛成、③安楽死、尊厳死に反対の3つで、この3つの選択肢から一つを選ぶものであった。 回答のうち2~3件は次の通りであった。

○安楽死賛成:

 ・これまでの自分の生に対して、もはや自分は納得しています。 周囲に迷惑をかけてまで永生きしようとは思いません。 (倉本聰氏)

 ・生きることは選べなくても、死ぬときは、自分らしくと思います。 (澤地久枝氏)

・見栄っ張りなので、死ぬ間際の見苦しい姿を人に見られたくない。 (岸田秀氏)

○尊厳死賛成:

 ・延命を望まないことと、自死を望むことの差は大きい。 許されるのは尊厳死までという気がします。 (尾崎護氏)

 ・日本の「現状では、安楽死と尊厳死、さらには自殺と自殺ほう助などの線引きがきちんとできるのかどうか不安です。 (あたのあつこ氏)

・不本意で悲惨な末期治療を避け、苦痛のみを和らげながら死を迎える尊厳死は「個人の最後の望み」として認めるべきと考えます。 (宮内義彦氏)

○安楽死・尊厳死共に反対

 ・生き物は全て自然死するようになっている。 人間だけが特別ではない。 (横尾忠則)

・制度化すると人間の生存権にかかわることになり、できません。 (伊東光晴氏)

 以上のアンケート結果から読み取れることは、死に対する考え方は1人ひとり違うこと、そして何らかの法則で一概に決めてしまうことの難しさを感得させる。 ちなみに、2017年3月に発表した文芸春秋の安楽死に関する調査以前に実施された調査では次のような結果が報告されている(1)。

 ①2010年11月に朝日新聞が実施した調査

  *自分が治る見込みがない末期ガンになって苦痛に耐えられなくなった場合、投薬などで安楽死が選べるしたら?

    選びたい - 70%   反対 - 22%

  *安楽死を法律で認めることに賛成ですか?

    賛成  -  74%   反対 - 18%

 ②2014年11月20日付「週刊文春」のアンケート調査

  *安楽死に賛成 - 68.8% 尊厳死に賛成 - 18.6%  反対 - 7.4%

3)読者の反応

上記の文芸春秋アンケートの回答の他に、末期病床にあって日々生と死の問題と向き合って自分自身の治療や肉親の介護にあたってる方々の生々しい意見も聴取してみよう。 ウエブページ「みんなの介護ニュース」に掲載されたジャーナリスト橘玲氏の特別寄稿『日本人の7割以上が安楽死に賛成しているのに、法律で認められない理由とは?』に対して読者から投稿された100件以上の意見の中から代表的なものを以下に紹介する。

生まれて初めて心の底から、「もう旅立たせてあげて下さい。 」と願い、祈りさえしたのは、10年に渡る癌治療の苦痛に呻き続ける末期癌の母を目の当たりにした時でした。 癌治療(放射線・手術・抗癌剤)で、内臓も骨も皮膚もボロボロ。 助かる可能性は全く無く、急速に進行する症状の痛みは増し続け、皮膚を侵食し広がり続ける癌傷からの出血も止まらない。 最期の数ヶ月はホスピスでお世話になり、ほんのわずかな間、食事が取れ会話も出来たのはせめてもの救いでしたが、他界する数日前には、リンパ節転移していた片脚の骨が砕けており、意識がなくなる程の強い鎮痛剤を投与しても最期の最期まで、表情から苦痛が消えませんでした。 医師に安楽死できないかと問い、申し訳ないと断られた時の失望感も、今なお鮮明に残ります。 この時初めて、どうか失血死を迎える前に旅立たせて下さいと、本気で祈りました。 意識無く呻き続ける母の喉元に、手を伸ばし掛けた事もありました。 旅立ちの時には立ち会えませんでしたが、母親を喪った哀しみよりも、安堵と感謝の気持ちが先立ちました。

今年、還暦を迎えるがん患者です。 今、厳しい選択の上にいます。 治療を続けるか、もしくは治療を全て断り、残された日を自分らしく生きるかの選択です。 がんは再発を繰り返す病気です。 治療を何度も続けると、体に後遺症が残り、介護なしに生活できなくなります。 同い年の妻とも何度も話し合いました。 私は、これから先、治療を続けて生き永らえたとしても妻に、ずっと世話になるのは申し訳なく思ってます。 長年、寄り添い、愛してきた妻です。 苦労を掛けたくありません。 しかし、治療を断ったとして、着実に衰えて来る体とどう向き合うのか、増大するであろう痛みに耐えて正気を保って行けるのか、自信が持てません。

私としては、自分らしく生きて、身の周りの事や判断ができる間に、自分の死も決めれたらと思ってます。 居なくなって寂しい、悲しいはいずれ、時が解決してくれます。 迷惑や実害が継続しません。 多分その方が、周りの人のためにも良い事だと思っています。

肺癌を患い、苦しみながら祖父が先日亡くなりました。 生前、最後に会ったのは病院でした。 息は荒くゼエゼエと呼吸が思うようにできずに苦しんでいました。 水を飲むことも医者には禁止され、唇を少し湿らせるだけ。 まだ、そこまで症状が重くなかったときには「安楽死をさせてくれればいいのに」と見舞いに来ていた祖母と母、私と弟で話していました。 苦しいからこそ、祖父は私たちに「体には気を付けろ」と、繰り返し言いつけていました。 気の難しい、昔ながらの人でしたし、何より自営業で仕事に生きた人でしたから、病気になって入院という事にかなり落ち込んでいました。 病は気から、その通りだと思いました。 酷くなる、その前に自分で自分の死に方を選べたのなら、その方がずっとその人のためだと思います。 私の心残りは、無責任にも病で苦しんでいる祖父に「またね」と言い、それを生前に果たすことができなかったことです。

母も叔父も叔母も認知症で、本人は何もわからないままに恥だけを垂れ流し周りに迷惑をかけ続け、亡くなった時はみんなに喜ばれ・・・。

そんな終わり方は絶対に避けたい。 それまで頑張って生きてきても、痴呆だった最後だけがみんなの記憶に残る・・・。 生きる権利があるなら死を自分で決める権利も認めてほしい。 安楽死早く法制化してください。

「命はあなたのものだけでない」というのも理解はできるけれど、身体の苦痛も精神の苦痛も本人だけのもので、誰も取って代わることができない。 それならどれだけ辛く苦しいのかも他の人には分からないから、どうして死にたいなんて考えるのかっていうのも他人の知るところじゃないはず。 全てを理解できないうちにそんなこと言って欲しくない。

安楽死賛成。 自分の人生でやるべきことはやって思い残すことはないので自分の最後は自分で決めたい、自分の人生なのに関係のない他人にとやかく言われたくない!

どんなに苦しく辛くても安楽死という選択ができないのはおかしい。 もし家族や友人が殺してくれ死にたいと泣いて助けを求めるなら、おれは殺人鬼になってやる!苦しみ続いて死んでゆけ、なんて残酷なことは言えない。

見えない障害を持つ身として言わせていただきますが、「人の苦しみは人のもの」これが真理です。 経験したことのない苦しみについて他人が首を突っ込んでどやかく言うことは人権蹂躙です。

安楽死、賛成です。 この世に産まれてくるのは自分の意思ではないけれど、皆それなりに頑張って生きています。 だから、自分の最期は自分の意思で選べても良いのではないでしょうか。 暴れたり徘徊したり、寝たきりの老人を支える人材もお金も、我が国では枯渇しています。 痛みや苦痛で苦しむ病人やその家族は毎日生き地獄です。

私は将来、一人息子に介護をさせたくないです。 安楽死を承る会社を起業したいと思ってましたが、狂人扱いされるかと思い誰にも相談できませんでした。 今回たまたまこちらの報告に辿り着き、安楽死の賛成者がたくさんいらっしゃるので安心しました。 どうしたら立ち上げられるのでしょう。

73歳の男です。 私も以前から安楽死に賛成です。 もう充分に生きて思い残すこともあまりありません。 なにより、自分の最後は自分で決めたいと思っています。 一部の人道主義者と称する人たちが反対しているようですが、他人の死についてどうこうするのは尊大すぎます。 自分のことは自分で決められられる人に指図すべきでもありません。

高齢者医療に苦慮している公共団体や医師会が一部の反対を恐れて黙っているのは卑怯な態度だと思います。 自分のことは自分で決められる社会を望んでいます。

私はインフォームドコンセントにより進行性のガンを宣告されています。 恐怖を感じながらなすすべもなく末期に向っています。 安楽死制度があれば、がんばって治療して末期になったら安らかに眠ろう、それまでがんばろう、と考えることもできるのだが。 やりたいことがすべて終わって、意識をなくすまえに安楽死させてほしい。 そのとき家族にさよならを伝えて死にたいです。 急に事故死したり、突然息を引き取ったり、何も言えないまま死ぬことはやっぱり悲しいです。

2006年に京都市伏見区で起きた、認知症の母を殺害し自分も自殺しようとした男性の殺害心中事件、ご存知ですか?たとえ死期が迫っていなくても家族に迷惑をかけずに逝かせて欲しいと願う気持ちはよくわかります。 わたしは、たった一人しかいない子供に、自分の介護のせいでこの男性のように子供の人生を壊すことは一切望みません。 安楽死させてくれないならば自殺を選びたいと思ってしまうでしょう。 だからこそ、きちんとした法律を作って安楽死も認めて欲しいと思う。

 以上のように長い間重病に苦しまれてきた患者やそれを介護する家族などからの悲痛な叫びに関して余分な説明は要らないだろう。 「きちんとした法律を作って安楽死を認めて欲しい」という最後の寄稿者の願いにつき、次章以下で本当に安楽死の合法化はできないのか検討したい。

2.安楽死を巡る状況

1)安楽死と尊厳死

安楽死とは、人に苦痛を与えずに死に至らせることである。 一般的に終末期患者に対する医療上の処遇を意味する。 安楽死に至る方法として、積極的安楽死と消極的安楽死の二種類がある。 積極的安楽死とは、致死性の薬物の服用または投与により、人を死に至らせる行為である。 医療上の積極的安楽死の場合は、死期が直前に迫っているわけでなく、まだ余命がいくばくか残っている場合であるが、患者が自分の自発的意思に基づいて、自ら致死性の薬物を服用して死に至る行為、または、要求に応じて、患者本人の自発的意思(意思表示能力を喪失する以前の自筆署名文書による事前意思表示も含む)に基づいて、他人(一般的に医師)が患者の自殺を故意に幇助して死に至らせることである。 しかし、この積極的安楽死について日本では法律で明示的に容認はしていない。

一方、消極的安楽死とは、予防・救命・回復・維持のための治療を開始しない、または、開始しても後に中止することによって、人を死に至らせる行為である。 医療上の消極的安楽死の場合は、病気・障害を予防する方法、発症した病気・障害から救命・回復する方法、生命を維持する方法、心身の機能を維持する方法が確立されていて、その治療をすることが可能であっても、患者本人の明確な意思(意思表示能力を喪失する以前の自筆署名文書による事前意思表示も含む)に基づく要求に応じ、または、患者本人が事前意思表示なしに意思表示不可能な場合は、患者の親・子・配偶者などの最も親等が近い家族の明確な意思に基づく要求に応じ、治療を開始しない、または、治療を開始した後に中止することにより、結果として死に至らせることである(2)。

日本でも世界の諸国でも、終末期の患者で余命が幾ばくもない場合、患者に対する延命治療の施行を止める消極的安楽死は広く普及している。 日本の法律では、患者本人の明確な意思表示に基づく消極的安楽死は、刑法199条の殺人罪、刑法202条の殺人幇助罪・承諾殺人罪にはならず、完全に本人の自由意思で決定・実施できる(3)。 また、他人(一般的には医師)が人を死なしめる行為を行う場合は、下記の条件のいずれかを満たす場合に容認される(違法性を阻却され刑事責任の対象にならない)。

・患者本人の明確な意思表示がある(意思表示能力を喪失する以前の自筆署名文書による事前意思表示も含む)場合。

・患者本人が事前意思表示なしに意思表示不可能な場合でも、患者の親・子・配偶者などの患者に最も親しい家族が強く依頼する場合。

尊厳死に関する法律は今のところ特に定められていないので、日本国内においては良いとも悪いとも決められていないのが現状である。 本人の希望、そして医師の判断などが延命治療を中断し、尊厳死を尊重するか否かのポイントとなってくる。

厚生労働省は終末期の治療に関して次のような「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を発表している(2007年)。  

1 人生の最終段階における医療及びケアの在り方

① 医師等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づいて患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたうえで、人生の最終段階における医療を進めることが最も重要な原則である。

② 人生の最終段階における医療における医療行為の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為の中止等は、多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。

③ 医療・ケアチームにより可能な限り疼痛やその他の不快な症状を十分に緩和し、患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを行うことが必要である。

④ 生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象としない(4)。

           (以下省略)

日本尊厳死協会は「不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断り、自然の経過のまま受け入れる死」と定義している。 いずれの定義も、延命治療をやめて自然な死を迎えるという意味で尊厳死を認めていることがわかる(5)。

   

一方、英米ではかつて、尊厳死は主に、治療の不開始・差し控えを指していたが、現在は、積極的安楽死や後で説明する「医師自殺幇助(ほうじょ)」を意味することが多くなっている。 このようなことから、日本で議論されている「尊厳死」と、英米で表現される「尊厳死」とは、内容が異なることがある。 日本では、安楽死に関して現状では法的には明確な指針がない。 安楽死は最終目的は自死する行為を意味するが、そうだと言っても、安楽死として自死した者に対して法律的にこれを有罪として判決を出したり、公的強制的にこの行為を断念させる法的な根拠はない(6)。

2)安楽死に関する法的規制 

わが国で安楽死に関する裁判が次表のようにいくつかあった。 安楽死に関する裁判の判決例につき次表を参照されたい。

安楽死に関する裁判の判決例(7)

前節で述べたように、自分で積極的安楽死を行った(未遂も含む)場合は、自殺であるが本人は有罪にはならない。 日本では他人(例えば医師)による積極的安楽死は法律で明確に容認されていないので、他人が積極的安楽死を行った(未遂も含む)場合は刑法上殺人罪の対象となる。 ただし、名古屋安楽死事件や、東海大学病院安楽死事件の判例では、下記の厳格な条件を全て満たす場合は違法性を阻却される(刑事責任の対象にならず有罪にならない)と述べている(8)。

◎名古屋安楽死事件の判例

1962年(昭和37年)の名古屋高裁の判例では、以下の6つの条件(違法性阻却条件)を満たさない場合は違法行為となると認定している。

①回復の見込みがない病気の終末期で死期の直前である。

②の心身に著しい苦痛・耐えがたい苦痛がある。

③患者の心身の苦痛からの解放が目的である。

④患者の意識が明瞭・意思表示能力があり、自発的意思で安楽死を要求してい

る。

⑤医師が行う。

⑥倫理的にも妥当な方法である。

◎東海大学病院安楽死事件の判例

1995年(平成7年)の横浜地裁の判例では、下記の4つの条件(違法性阻却条件)を満たさない場合は違法行為となると認定している。

①患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。

②患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。

③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。

④患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。

3)海外の安楽死状況

世界で積極的安楽死を認めている国や地域がある。 最も早く安楽死が認められたのはスイスで、現在スイス以外でもオランダやベルギー、ルクセンブルグのヨーロッパ各国の他、アメリカのニューメキシコ、カリフォルニア、ワシントン、オレゴン、モンタナ、バーモンドの6つの州で、安楽死が合法となっている。 このように世界的に徐々に安楽死が認められつつあると言えるだろう(9)。

①スイス

1942年から安楽死を認めているスイスでには、世界で唯一の国として外国からも安楽死希望者を受け入れており、そのための団体が6つもある。 以前は末期がんや激しい痛みを伴う難病の人に限って受け入れてきたが、最近は深刻でない人も受け入れているようである。 その理由は、「本人が決めたことに関しては、できるだけ認めるべきだ」という世界的な自己決定尊重の流れがあるとのことである。 安楽死受け入れ団体の一つである「ディグニタス」ではドイツやフランスなどの国から2013年に198人の外国人を受け入れたという。

①アメリカ

アメリカで初めて安楽死法案に対する住民投票が行われたのは、1991のワシントン州とカリフォルニア州であった。 しかしいずれの州も反対が多数を占めて法制化は見送られた。 ついで1994年オレゴン州で投票が行われ、今度は僅差で賛成派が多数を占め、この法律「メジャー16)」の法制化が認められた。 その内容は、

 余命6ヶ月以内と診断された精神的判断力のある成人の末期患者が安楽死を申し出た場合、

a.15日の猶予期間をおき、別の医師が病状を確認する。

b.患者は二人以上の証人の面前で安楽死の意思を書面に作成する。

c.主治医は、患者の意思に変更がないことを確認したうえで、命を絶つに必要な経口薬を処方することができる。

というもので、医師は処方箋を書くだけで、患者自らが薬を飲むことになる。

アメリカの安楽死運動は、患者の権利拡大の一環として生まれ、末期状態になった時にどういう医療を望むかを事前に明確にしておくことは、患者の権利でアドバンス・ディレクティブと呼ばれている。

②オランダ

オランダには、安楽死についてわが国と同様に「嘱託殺人罪」および[自殺関与罪]があり、オランダ刑法で関係者の嘱託で患者を殺した医師に対して3年以下の懲役または罰金に処することを規定していた。 しかしオランダ上院は平成13年に安楽死を可決した。 それまで、現実的には毎年3000人程度の人が、医師の手で安楽死が施されていた。 しかし安楽死法の制定により、医師はオランダ医師会が承認した「生命終結の方向届出書」を提出する義務を果たせば、合法的に希望者を死なせることができるようになった。

シャボット事件というものがあり、肉体的には健常者である精神科の患者の精神的苦痛のために患者を死なせた自殺ほう助をオランダ最高裁判所が認めた最初の判決として注目された。

③オーストラリア

 同国で初めて安楽死法案が成立したのは、オーストラリアの北部準州であった。 同準州の議会は、1995年安楽死を合法化した「末期患者の権利法」を議員立法で可決成立させた。 しかしその後地元医師会および牧師が同法に反対する提訴を行い、最終的に1996年に同国上下院で同提案が可決され、初めての安楽死法は制定後9カ月の短命に終わった。

④ベルギー

 ベルギー上院は2001年に安楽死を合法化する法案を可決した。 その内容は、a.患者の明確な意思表示がある。 b.耐えがたい苦痛がある。 c.治療によって回復する見込みがない、などの要件となっている。

2.私の安息死研究戦略

1)解決策としての私の安息死

橋田寿賀子氏の「安楽死で死なせてください」という呼びかけをきっかけに、我々は安楽死に関する様々な情報や資料を集め、その解決策を見出す努力をした。 その間我々は国内外の安楽死事情について知識を得ることができた。 そしてわが国では安楽死(積極的的安楽死)は認められないが、海外の一部の国では安楽死か、それに近い形の死に方について許可されていることがわかった。

我々はわが国の安楽死の状況について突っ込んだ独自の調査を行ったが、その結果、医療、法曹、倫理、福祉、宗教など各分野の専門家、関係者、患者と家族などがそれぞれ独自の考え方をもっていることを改めて認識した。 そしてどの意見も各自の立場や体験や思想をベースとして傾注すべき説得力があることも確認することができた。 そのため調査の結果出揃った意見・主張の中から解決策を見つけることの難しさに圧倒される思いをした。 しかし前述のように文芸春秋等の調査によれば、アンケート対象者の7割程度の人々が安楽死を望んでいることがわかっている。 また、第1章で終末期のベッドの中で救いのない過酷な治療で全身ボロボロになっている患者やその看護者の苦悩に満ちた安楽死への願いを考えて、我々は解決策を求めて懸命の努力を重ねた。

上記のようにわが国の現状では重病によって命の終末が旦夕に迫っている尊厳死までは認められているが、安楽死(積極的)はまだ許可されていない。 各方面からの安楽死に関する意見や判断が錯綜していて、船頭多くして船山に登る状況となっている。 そのなかで我々は日本尊厳死協会が提供しているリビングウイルにつき着目した。 同協会のリビングウイルはもっぱら尊厳死を対象としているが、彼らは安楽死の至近距離まで踏み込んでいる。 我々は熟考の上、このリビングイルを活用して安楽死を実現する手掛かりを見つけることができた(10)。

その方法はまずリビングウイルの対象を認知症に限定することである。 認知症は通常完全な認知症であっても、身体的には健康な人が多く、命の終末までまだ大分生きる時間が残されている。 それが現在安楽死を認める上での障害となっている。 我々は熟考のうえ、その障害を避ける方法を発見することに成功した。 その方法は、リビングウイルの中に「現在自分は認知症になっていないが、なった時に死なせてほしい」という停止条件付の希望を書き込むことである。 そういう条件を付けるので今リビングウイルを作成しても、(ちょっと姑息な話ではあるが)とりあえずリビングウイルが効力を発揮(死亡)するまで何らの問題も起こることはなく、次の対策を考えるまでの時間を稼ぐことができる。

取りあえず我々が考案した安楽死の方法(仮設)は次の通りである。

① 健康で健常な状態の時にリビングウイルを作成する。

②リビングウイルの内容は、自分が完全な認知症(まだら認知の状態ではない完全な認知状態)になって家族の顔もわからない状態になった時に自死することを示す。

③リビングウイル作成にあたって家族と徹底的な話し合いをして、安楽死に対する家族全員の合意を取り付けて家族・関係者全員に連署してもらう。 そして、喪主候補の代表(例えば、妻や長男・長女)に安楽死実施の時期を決める権利を付与する。

④ 以前に起きた事例、すなわち国会議員団が安楽死を公式に認めるよう安楽死法案を国会へ上程しようと試みたが各方面からの反対に会って廃案となった事例を参考にして、我々がめざしている安楽死を完全に個人の自己決定の行為と限定する。 そのため我々の戦略目標である安楽死に、個人の行為であるという点を明確にするため、「私の安楽死」と命名する。 同時に、「私の安楽死」方法を法制化や一般化するための布教活動を行うことを避け自粛する。

2)私の安息死(My Sabbath Death)

 上記で「私の安楽死」について提案を行った。 しかし我々は「私の安楽死」に対して「安楽死」という言葉を使うことに違和感を感じる。 安楽死(積極的)という言葉は一般に使われているが、法的な実体をもたない空疎な言葉である。 このため我々は「私の安楽死」という言葉の代わりに「私の安息死」という表現を使って、我々の死の概念を明確にしたい。 ここでいう「安息」([安楽]ではない)の意味はユダヤ教「旧約聖書」天地創造物語に出てくる安息日(Sabbath)に由来するもので、1週7日最後の日に一切の業務・労働を止めて休息する日のことを意味する(11)。 我々が「安楽」という言葉の代わりに「安息」という言葉を援用しようとする意図は、ただ気楽に死ぬということではなくて、1週間の労働・勤勉に対して休息を得るという点で積極的・肯定的な意味を持っている。 したがって「私の安息死」という言葉は、自分に与えられた人生を無駄に費やしながらだらだらと生きたあげく、気楽に死ぬという「気楽死」ではない。 自分の人生を精一杯生きて、社会的にも貢献し充実した人生を生きた後、永遠の休息を得るために手にする「安息死」である。 生まれながら精神的、肉体的障害を負ったり、経済的に貧困な家庭に生まれたというハンディキャップを背負いながら刻苦勉励して生き抜いたという貴重な人生を背景にした人たちに対しても許される「安息死」である。

話が変わるが、平家物語は平家一門が都落ちをして、最後に壇ノ浦で滅亡するまでの成り行きを詳しく綴った叙事詩であるが、そのなかで平智盛は壇ノ浦の戦いの勝敗が決した時に「見るべきほどの事をば見つ、今はただ自害せん!」という辞世の句を残して入水した。 総帥として平家一門の運命を担って最後まで戦い抜いた武将の生きざま・死にざまを見事に象徴する“意義ある死”は彼にとっての「安息死」であろう。 このため人生を無意味に過ごした者にとっては、「私の安息死」は認められないというのが我々の気持ちである。

3)NPO法人の会員募集

 以上の戦略を実行するために、我々は「NPO法人私の安息死研究会」を立ち上げて、「私の安息死戦略」に賛同する人々から会員を募る。 この戦略成功の第1の条件は、大勢の会員を集めるため世間的に発信力・影響力の大きい人物を会長に迎えることである。 目標として、2019年度中に数千人~1万人の会員を集め、2020年度に100万人以上の会員を集めることにする。 この意欲的な狙いは、多数の会員を集めて“数の力”で、「私の安息死」に対する世間的な認知を得ることにある。 しかし当法人の広報宣伝活動は会員を集めることに集中し、安息死の法制化・一般化の普及をはかるような布教活動は自粛する。 同時に、個人の自己決定権を活動方針の主軸に備えて、関係各方面からの強力な抵抗や干渉を避けるように用心する。

3.私の安息死の理論的検証

1)法的側面からの検討

安楽死は死を伴う行為であるが、わが国においては自殺行為を行っても本人は不可罰である。 したがって自分のリビングウイルに基づいて死ぬ場合は罪にならない。 しかし死ぬにあたって医師が薬物を投入したり、注射などの処置によって本人を自殺させる場合は、刑法第199条や202条のように殺人や自殺教唆罪若しくは自殺幇助罪を適用されて、6月以上の懲役又は禁固に処せられることがある。 したがって医師の関与を免責する措置を講ずる必要がある。 だが、万一自分のリビングウイルに基づいて自死したとしても、本人は刑法によっても不可罰である。

2)道義的見地からの検討

我々の戦略目標は、上述のように一言でいえば、「健康な精神状態の時にLWを書き、将来自分が認知症になった時に、法律や規制に触れることなく死にたいという意思を表示し、時期が来たら自死する」ことである。 この行為は法的視点から免責されているが、道義的・倫理的視点から問題がないのかどうか検討してみよう。

(1)認知症について

認知症は認知障害の一種であり、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が不可逆的に低下した状態である。 これは「知能が後天的に低下した状態」のことを指すが、医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群として定義される(12)。

間脳を含む脳全体の機能が不可逆的に停止した状態を「脳死」という(13)。 脳死はたとえ心臓が動いていても現在では「人間の死」と判断され、その肉体から臓器を摘出しても犯罪にはならない。 認知症の場合は脳の機能が一部破損され、精神に障害が生じ、意識がなくなり「精神死」となる。 しかし通常肉体は元気なので、「精神死」は「人間の死」にはならない。 したがって認知症の患者が注射などの行為により安楽死される場合、医者は有罪となる。

現在わが国で認知症の患者数が450万人以上に達し、2025年にこの人数が700万人を超えると厚労省が推計している。 これに軽度認知症者(MCI)の400万人を加えると1300万人を超え、65歳以上の高齢者の3人に1人が認知症患者とその予備軍となるという憂鬱な予想がされる。 このような状況を考えると、この辺で何らか抜本的な対策が考案される必要がある(14)。

(2)命の神聖さ(SOL)

「生命の神聖さ」は、欧米で言うサンクティティ・オフ・ライフ(Sanctity of Life)にあたる。 これは「人の命は尊い」という信念を表している。 キリスト教圏では、この言葉には「命は神によって造られたのものであり、特に人間は神に似て作られたものであるから、人の命は人間が侵してはならないもの」という意味合いが込められている(15)。 日本ではそこまでの意味はないかもしれないが、それでも「人の命はそれ自体で尊く、何ものにも代えがたい」と信じる人は多いだろう。 その理由は何だろう。

そもそも世界はなぜ存在するのだろうか。 これに対して、神による世界の創造という神学的な答えを与えるのでないとすれば、人間にとっては解明不可能な問いである。 また、私はなぜこの世に生まれてきたのだろうか。 私はなぜかこの世に生まれてきて、ある日突然、自己意識として私がいることに気づくのか。 世界がある、私がいる、あなたがいる、このことは不思議で、「神秘」であり、世界があり、私がおり、あなたがいることは超越的な力を感じさせることとして、「畏敬の念」を生じさせる。 私の力を超えた次元に対する畏れと慄き、敬いの念である。 それは、西行法師が伊勢神宮を参拝したときに読んだ歌、「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という心情である。 この神聖さは神秘ともつながり、人が生まれた時にすでに身に備わっている先天的なもので、人がこれから命をどのように使っていくか、どのように生きていくかの源となるものである(16)。

(3)医療におけるヒポクラテスの誓い(17)

医師ならだれもが知っている「ヒポクラテスの誓い」というものがある。 古代ギリシャの医師ヒポクラテスが医師としての心構えを神に誓った文章の中に、「頼まれても、死に導く薬を与えない」という一節がある。 この強い信念の裏にあるのが、「命は神聖である」という考えである。

この生命の神聖さという信念に基づいて、従来主に三つの倫理原理が主張されてきた。

「第1の倫理原則」人為的に死を招いてはならない。 少なくとも正当防衛の場合を除き、人が人を死なせてはならない。

「第2の倫理原則」ある人の命が値打ちあるものかどうかを第三者が問うことは許されない。 人の命は無条件に尊いはずなのである。

「第3の倫理原則」ましてや、ある人の命の価値を他の人の価値と比較することは許されず、すべての人の命は平等に扱われなければならない。 なぜなら、すべての人の命はそれぞれ他の命と代えがたい尊さをもつと信じられているからである。

 このヒポクラテスの誓いが医療に携わる医師の守るべき規範として、2千年以上もの間伝統的に守られてきた。 ヒポクラテスの誓いに関連して、フランスのノーベル文学賞受賞作家のロジェ・マルタン・デュ・ガールが大河小説「チボー家の人々」のなかで長男アントワーヌ医師が父オスカル氏の死にゆくまでの4日の間、最後の最後まで医者としての信念をもって患者の命を救うべく看護婦たちと一緒に死力を尽くして介護する様子を克明に描いている。 アントワープ医師の患者の命を1分1秒でも延ばそうとする努力は驚嘆すべきものがあり、医師としての義務感の強さに尊敬の念を感じえない。 同時に、散々苦しみながら死んでいった父チボー氏にとって、この4日間の苦しみは一体何だったのだろうか、彼の死後に壮大な葬式以外何を残したのかという疑問も禁じえなかったことが忘れられない(18)。

(4)生活の質(QOL)

 医療関係者にとっては、QOL(英: Quality of Life)という言葉は日常耳にする概念であるが、この概念には2通りの意味がある。 人生の質と生活の質である。 医療現場で考える生活の質は、一人ひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指す。 このQOLの言葉は、医療の現場から出てきたもので、手術や治療を受けた患者が術後どのような生活を送るか、その生活の質を向上させるかとの目的でもつ言葉で、「生活の質」や「生活水準」ともいう。 つまり、ある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。 WHOが提唱するQOLの「幸福」とは、身心の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な住環境、十分な教育、レクリエーション活動、レジャーなど様々な観点から計られる(19)。

このQOLを基準とすると、前章で紹介された医療現場の患者や介護者が訴える現状は比較にならないほど劣悪で悲惨な状況といわざるをえない。 この状況を解決する方法の一つが、医療現場の患者たちが訴える安楽死である。 そして患者の立場に立って尊厳死や安楽死が合法的にできる環境を整備することが緊急の課題といえよう。 この問題を論するにあたって、医療現場の事情を知る必要がある。 第1章で、終末期医療現場の患者や家族などからの安楽死に対する切実な願いを知ることができたが、介護の現場で実際に介護の仕事に従事している介護士の意見も聞いてみよう(20)。

*私は安楽死大賛成です。 特養で介護福祉士をしていますが、老いて様々な病を抱え、死にたくても死ねない、死なせてもらえない、そのことがどんなに残酷であるか、日々ひしひしと感じながら仕事をしています。 大量の薬を飲ませられ、本人が嫌がっているにも関わらず無理矢理食事や水分を口に入れられ、転倒のリスクを避けるために行動を制限される。 そして利用者から漏れる言葉は「死にたい、いつになったら死ねるの?」。 高齢者医療や介護は、いかに一人の老人を生き長らえさせるかが目的となり、尊厳やQOLは忘れ去られているかのよう。 本質的には生命の質こそが自己決定の本来的な対象なのだが。

*障害者や認知症老人などの施設などでの扱いがひど過ぎます。 私は現場の実態を知っているから書きますが、生き地獄で自殺もできず寿命や病気を待って死んでいくのは悲惨すぎます。 性的強要、虐待、嫌がらせ、いじめ、窃盗などなど。 人権団体は何をやっているんでしょうか?そしてそういう地獄施設を体験すると人格がおかしくなります。 退院後、退所後に心が壊れた状態で事件を起こす人もいます。 障害者や認知症など当事者が安楽死を望むなら認めるべきです。 自殺されるよりましです。 もちろん臓器提供や死後の預貯金・財産などの寄付などすればよいのです。 とにかく施設や病院暮らしの生き地獄を老後に持ってくるのは残酷です。 現場の実態はエグ過ぎます。 誰だって嫌ですよ、あんな場所で生き地獄で死んでいくのは・・・。 もちろん良心的な施設もあるでしょうが少ないのではないでしょうか?そして職員もいい人に限って現場の悲惨な実態に悩み辞職していきます。 睡眠薬による自殺で安楽死を実行しようとしても、素人では100錠飲んでも死ねない場合があります。

*介護職や家庭での介護を実際に経験した人で、自分自身が認知症や寝たきりとなり下の世話まで受ける状態になって、子や孫そして社会に多大な迷惑を掛けてまで生き続けたいと考える人はどのぐらいいるのだろうか?いま私は養護老人ホームで日々苦みを味わっている人をたくさん介護しています。 早く死にたいという患者に、ついつい「なかなか順番来ませんね~」と相づちを打ったり、「順番の予約札を貰いに行くの忘れたんとちゃいますか」とダークグレーなジョークで返したり。 それでも「何とか少しでも食べて頂こう」とか「水分摂取量を維持するには」やら「リハビリの為に頑張って」「口腔ケアも忘れずに」みたいな職業倫理だか責任回避だか分かりませんが、ご本人の意思とは違うケアをやっちゃてますね、イヤやらされてます。 私はそんな状態で生かされ続けるのは真っ平御免です。 お医者さんに「コレを飲んだら眠るように楽に逝けますよ」と薬を貰えると確かに楽でいいんだけれど。

以上のような悲惨な介護の現場でなくて、もっと快適で理想的な養護施設が当然あると思われるが、上記のような現場があることも事実であろう。 いずれにしてもこの現状を抜本的に解決する対策が緊急の課題となっている。

(5)生命の尊厳

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間を理性的な動物とした。 ローマの哲学者キケローは人間と動物を比較し、人間は理性を持っている点において動物より優越しており、そこに人間の尊厳があるとした。 ドイツの哲学者カントは、理性を持った存在者として人格について定義し、人格はそれが存在すること自体が目的であり、絶対的な価値を持っているとした。 人格は理性と道徳性を持ち、自律しているがゆえに「尊厳」を有しているという。 この人間の尊厳(human dignity)という言葉に対して、人間の命の尊厳(dignity of human life)という考え方がある。 後者の概念は、単に「人間」の尊厳というだけでなく、人間の「命のあり方」という一点に踏み込んで規定している。 我々は、第2節で命の神聖さ(SOL)について考察した。 本節では命の神聖さをベースにして命の尊厳について検討する(21)。

人間の「いのち」というあり方を一言でいえば、それは、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方で人間がこの世を生きることを意味する。 人間の「いのち」について考察する場合、さらに次の3つの側面から光を当てる必要がある。

①私は気がついたら生まれてきているのであり、やがて死んでいくのである。 そして私の生きている人生は一度限りである。 過ぎ去った日々はもう二度と戻ってくることがない。 「いのち」を生きるとは、不滅の存在を生きるのではなく、自らの生成と消滅のプロセスを生きることである。

②人間は身体を生きるというかたちで存在している。 身体を通して人と人は交わることができ、生命活動を維持することができる。 そして身体は生物学的な仕組みによって動かされる。 身体に成長や老いや死があるのも、人間が生物としての身体を持つからである。

③人間は、この世に生きる様々な「いのち」とのつながりなかで初めて生きていくことができる。 それは、a 世代間のつながりにおいて、b社会とのつながりにおいて、c大自然とのつながりにおいて、である。

すなわち人間の「いのち」については、精神、肉体、社会との関係性の3つの側面からの考察が必要である(22)。

メメント・モリ(memento mori)という言葉がある。 ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句で、ペストが蔓延した欧州中世を中心に広く使われた。

(ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』 

1493年、版画)

ドイツの実存哲学者ハイデガーは、彼の著『存在と時間』の中で、人間は、自分の死に直面するとき、生きていることの素晴らしさ、自分の存在の重みを知る、そして、自分の存在を改めて見直し、自分の今の人生を他のだれのものでもない自分自身の一度きりの人生として捉えることができるのである。 この死の自覚を通して、人間は死を忘れた世人(das Man)としての在り方―非本来的な生き方、日常性―から離れ、本来的な生き方をするようになるとしている(23)。 人間は自分が有限な死にゆく存在であることを知り、その知性と自由意志によって自己形成をしていくということは、自己存在のあり方に対して責任をとるということでもある。 そしてそこから、「存在する」ことの不思議さ、生きる意味・生きがいを感じる実存を問う姿勢が生まれる。

スイスの心理学者ユングは、人の死に対する態度には2つの方向性があるという。 一つは、自分の死を恐怖する態度と、逆に早くから死ぬ覚悟のできている従容とした態度に分極する。 後者の場合、老年期になっても生き生きと生きることができるが、できていない人は死を恐れながら死んでいくと説明している(24)。

ハイデガーの言葉と同じような意味を持つ言葉にQOD(クオリティ・オブ・デスQuality of Death)がある。 この言葉は、人間が死を意識して有限な生を生きることに正面から目を向けよ、それによって生命の尊厳がさらに自覚せよということである。 QODという言葉は、福祉国家として知られるスウェーデンなど欧米から取り入れられてきた。 スウェーデンではこの20年ほどの間に医療のあり方が大きく変化して、国民に「死をタブー視しない」感覚が根付いてきたという。 2012年にイギリスのエコノミスト社の調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)がQODについて行った調査の結果、40か国の中で日本は23位であった(25)。 このクオリティ・オブ・デスについて具体的に理解を深めるため、ある経験者が福祉関係組織のウエブ上に投稿した報告を参照しよう(26)。

??私も肉親や近しい人の死を体験してきました。 特に末期ガンと宣告された母との日々は、私に人生というものを改めて教えさせてくれた時でもありました。 そしてその時から人生を「生」からではなく、「死」の視点から考えるようになっていきました。

ある時「クオリティ・オブ・デス」という言葉があることを知りました。 この世に生を受けた以上、私たちには必ず死がおとずれます。 私たちの人生とは、死へ向かう道を歩むものに他なりません。 死は避けて通れないものです。 この自分の人生の終着点である死の時について考えることは、「どう生きるか」を考えることと同義でもあるのです。

末期ガンや小児ガンの患者さんたちのケアのための施設にいらしたお医者様達によると、

せっかく良い人生だったのに、人生の終着点である「死」の時が、ご本人の意思とは全く異なった不本意な終わり方をなさる方が意外に多い。 本当に「あぁ、いい人生だったなぁ。 ありがとう」といえる人生を送ることができるように、「理想の亡くなり方」を考えていくのが大切だと思うのだそうです。

ここ数年、遺言状の書き方やエンディングノートの紹介などを目にする機会が増えてきたように思います。 こうしたことも、自分の人生をQODの視点から見つめるということと同じかもしれません。 ??

上記の言葉を裏書きするように、最後の時が来るまで残った時間を有効に使おうと勇気が出たという事例があった。 進行性の病気に苦しみながらリオデジャネイロ・パラリンピックに挑み続けてきた陸上女子のマリーケ・フェルフールト(37)=ベルギーフェルフールトは大会期間中、2008年に安楽死の許可を得たことを打ち明けた。 今大会で引退と決めており、有終の美を飾ったフェルフールトは「夢がかなって幸せだが、もうレース用の車いすに乗れない」と複雑な胸の内を語った(27)。

本節を閉じるにあたって、“死ぬためによく生きる(Better Life for Death)”というキーコンセプトを結論としよう。

(6)よく生きる

 プラトンによれば、倫理学の祖と呼ばれるソクラテスは「私たちはただ生きることではなく、よく生きることこそもっとも大切にしなければならない」と述べたという。 彼は自分の無知を自覚し、真の幸福はただ欲望を満たすことではなく、人間らしく正しく健やかな魂をもって生きることそのものにあると考え、常に知恵を愛し求め続けた。 そしてソフィストたちの讒訴によって投獄されたが、ある時友人たちが獄から逃亡することを勧めたのに対して、法を犯すことを拒み、「よく生きる」を貫くために、自らの死を静かに受け入れた(28)。

さて、ソクラテスに端を発する倫理学では人間の行為の善悪が基本的な評価の枠になる。 (哲学の議論ではこれに対し、真偽が重要である)。 こうした倫理を考えるにあたって、大きく二つの立場があって対立している。 功利主義(功利論)と義務論である。 功利主義はイギリスのベンサム(1748~1832)によって代表される立場である。 功利とは有用性(utility)のことである。 何のための有用性かというと、幸福のための有用性である。 つまり幸福に対して有用なこと、幸福に貢献できることが善であり、逆に幸福を妨げることが悪である。 こうした功利主義は義務論の立場から批判を受けることになる。 義務論の代表者としてよく引かれるのは、ドイツの哲学者カント(1724~1804)である。 倫理や道徳というものには、それ固有の論理がある。 例えば[嘘をついてはいけない]ということは、私たちだれでもが守らなければならない。 守ることは善であり、破ることは悪である。 これはソクラテスやプラトンの立場と同じである(29)。

実際には、このふたつの立場の優劣をつけることはできない。 あえていえば、義務論は個々人の倫理的行為を判断するのに適している。 これに対して、功利主義は社会的な広がりをもつ行為を判断するのに適している。 義務論が行為の動機を問う傾向が強いのに対し、功利主義は行為の結果を重視する傾向が強い。

 ところで、この倫理学的論議は論議として、現代に生きる我々にとってソクラテスが説く「よく生きる」ためには具体的にどうすればよいかということが現実の問題である。 この問題については、やはり様々な賢者が諸説を発表しているが、往々にして抽象的で我々凡人にはよくわからない。 そのために、一つの解として現在の学校でどのように生きる目的・教育の目的を教えているかを参考にしてみよう。

現在、文部科学省が発表している教育指導要領に記載されている教育の目的は、次のようである。 それによると、教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 教育の目的は、一言で言えば「人格の形成」である。 そしてその目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう教育活動が行われるものとする(教育基本法2条 教育の目標)。

・幅広い知識と教養を身につける。

・真理を求める態度を養う。

・豊かな情操と道徳心を培う。

・健やかな身体を養う。

・個人の価値を尊重する。

 (以下省略)

 以上のような教育指導要領によれば、教育の目的は人格の形成にあるが、この人格形成や学習には「教養」が重要な役割を果たしている。 そしてその教養については、「人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果」をさしている。 加えて、特殊専門的な知識や特定の職業に限定されやすい我々の精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが全人格的な教養人へ発展させることが理想であるとしている。 (30)

 みんながこの学校教育の目的通り生きることができるかどうか難しい問題ではであるが、人間としてそれぞれがこのような理想に向かって努力すること自体が、自分の人生の価値を高めるための意義があるのではないだろうか。

(7)人格形成と発展段階

 人間はヒト(生物的存在)として生まれ、社会の中で人間となり、人格を完成していく。 この過程を社会化の過程という。 すなわち、所属する集団や社会の規範、価値、主観的な行動様式を学習し、内面化し、他者との相互作用を通じて、生活習慣の確立、動機的学習、文化的価値形式の受容などがなされることを意味する(発達心理学)。 それは、発達過程に所属する集団によって大きな影響を受けることになるが、その発達は幼児期に限られるのではなく、成人しても行なわれる。 幼児期においては、親や家族との同一化が中心であるが、発達に伴いその内容は拡大し複雑化する。 このようにして人間として社会に生きるための基本的学習過程をこなしていく社会化について、アメリカの発達心理学者エリクソンがライフサイクル論を展開した(31)。

       発達段階              段階の課題

幼児期 私はだれか?誰でいられるか    子どもが社会人となるプロセス

青年期 私は愛することができるか     恋愛を通して結婚し家庭を営む  

成人期 私は自分の人生を当てにできるか  家庭の中の親とし、仕事を通して家族を養う

老年期 私は私でよかったか        自分の人生を振り返り、死に臨む

エリクソンは人間の発展段階を幼児期、青年期、成年期、老年期等の各段階に分け、それぞれの段階に成すべき課題があるとした。 そして最後の段階で老年期を人生の完熟期と呼び、次のような特徴を挙げた。 すなわち、心身の衰えや、それまで担ってきた役割からの引退、近親者との別れなど、喪失体験が増えてくる。 一方で、認知能力の向上や、肯定的感情の増加といった獲得的変化も生じている。 エリクソンは、第5節でユングが指摘した死に対する相反する態度を絶望vs統合という形で老年期の課題として表現している。 この老年期の課題について、NPO法人私の安息死研究会の一会員の話しを次に紹介しよう。

「私は81歳になりそろそろ自分の人生に終止符を打つ時期が迫ってきたので、自分としてどういう死に方をすればよいか考えるようになりました。 そこで自分の周辺で世を去った先輩諸氏の死にざまを参考にさせていただいています。 一番好い死に方は、だれも異論がないと思いますが、いわゆる「ピンピンコロリ」で、昨晩まで元気にしていたのに、朝起きないので見に行ったら死んでいた、という死に方です。 しかしそういう理想的な死に方に恵まれることは確率が低く、病院や自宅で苦痛の上比較的短期間または何年にもわたって闘病生活を送ったうえで死を迎えることが多いのが現実です。

私自身の経験では、認知症になって死ぬのが一番怖い。 怖い理由は知人のある女性の死にざまを見たからです。 彼女は某大新聞社の責任ある地位にいた方の連れ合いで、生前清楚な容姿と教養ある話題と振る舞いで多くの人々の尊敬を集めていました。 しかし認知症になって突然様変わりをして、粗暴な振る舞いや「腹へった、早く飯を食わせ、また金をとったのだろう!」などなどの暴言を吐くので、みんなの度肝を抜いてしまいました。 認知症になって、おとなしい好々爺になる人がいれば、おれは社長だ、東大出身だと威張る人もいます。 また認知症になり、昼間はウトウトと眠っているが夜になると騒いだり、部屋の中で大便を漏らして壁に塗りつけたりして、昼間の仕事で疲れ切った息子や娘の睡眠を妨げる父親がいます。

認知症はこのように周りの介護者に迷惑をかけたり、仕事や私生活で努力して築き上げた自分の人格や尊厳をぶち壊してみたり、妻や子どもの顔もわからず「あなたはだれ?」と言って相手を落胆させたりします。 そういう風に人に迷惑をかけ、自分の尊厳を壊す認知症になるくらいなら死んだ方がましだと私は考えます。 私は尊厳的安楽死を望みます。 私の周りにはこういう考えをする老人は沢山います。 」

(8)命の価値

  我々は第3節でヒポクラテスの誓いの「第3の倫理原則 ある人の命が値打ちあるものかどうかを第三者が問うことは許されない、人の命は無条件に尊い」という誓いを参照した。 これに呼応するように、実存哲学者森岡正博氏は命に関する根源的な安心感について次のように述べている。 たとえ知的に劣っていようが、醜かかろううが、障害があろうが、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の存在だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できること、これが悔いなく生きるための前提条件である。 だれであれ命は根源的に平等である(32)。

第5節で、我々は人間の「いのち」のあり方について、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方で人間がこの世を生きていく実存を確認した。 ソクラテスは生き方につきよく生きることを提唱した。 人間の存在の基本は、上述のように平等である。 しかし人間の存在が織りなす営みは平等ではなく、現実には営みの結果として作り出されるものに、価値の高いものや低いものがある。 社会的に多大の貢献をする者がいるのに対してほとんど貢献をしない者がいたり、重大な罪を犯す者がいる。 このように社会に有益な善い活動をした人間と、社会に不利な悪事を働いた人間を同じように評価することはできない。 そうした行為や実績は人生の「いのち」が先天的に体現している権利ではなく、その素材から作り出された結果であるからである。 ヒポクラテスが指摘するように1人の人間が他人の命の値打ちを評価することは許されない。 人の「いのち」は無条件に尊いからである。 しかし「いのち」が作り出した成果を比較することは許されると考えてよいであろう。

このように他人の成果を評価することがたとえは許されても、人にはそれぞれ考え方や価値判断があって一律に論じるわけにはいかない。 しかし、自分が自分自身の生きてきた生き様・「いのち」の成果を評価することは、だれからも非難されるものではない。 自分の人生をエリクソンのライフサイクル論が示すように、幼児期、青年期、青年期、老年期の各段階を通してそれぞれの段階の課題をどのように達成してきたかを振り返って反省するとともに、老年期になって人生の終末までにいかに生きるかを熟考することになる。 このように人間はいままで過ごしてきた人生とこれから自分の終末に向かう実存的な存在である。 そして自分が満足かつ充実した人生を送り、老齢になって自分の尊厳を守りながら自らの人生に幕を下ろすことを決断しても非難されることはないだろう(33)。

(9)生き物の命

人間は理性的存在である、あるいは人間は理性的動物である。 そうしたギリシャ以来の西洋の人間観にあるのは、人間の生命と他の生命とは対等でなく、特に尊いのだとする人間中心主義的発想の世界観である。 そして頂点に人間を置き、すぐ下に動物、その下に植物、そして一番下に命のない物質を置くという階層的序列を考えている。 そして、人間の生命が特に尊いとするのは、人間は自己意識があり、自己の行為主体として、その行為に対して責任が問えるのに対して、植物や動物にはその振る舞いの責任を問うことはできないからだとしている(34)1

オーストラリアの生命倫理学者シンガーは『実践の倫理』(1979年)で、人間のみがパーソンたりうるという考えは偏見であり、他の動物だってパーソンでありうるとしている。 パーソンの要件として彼が考えているのは「理性的で自己意識のある」ことであるとして、自己意識をもつチンパンジー、ゴリラ、犬や牛、その下に自己意識はもっていないが意識(気づき)はもっているものとして下等な動物、さらにその下に生命のない物質とともに意識のない植物を考えている(35)。 このシンガーの説に従えば、完全に認知症にかかった人間は、自己意識をなくし、知性においてチンパンジーや犬や馬などの動物より劣る、価値の低い生き物ということになる。 我々の体験でも犬などは人間の3歳児程度の知性もあり、名前を呼ぶと尻尾を振ったりして自己意識があることを示している。

現在わが国でも人間の脳の活動が停止しても心臓が動いていれば「脳死」として判断され、肉体から内臓を摘出しても罪にはならない。 一方、脳の機能の一部に損傷があり完全認知症者になり家族の顔も分からなくなった者は記憶も知性も自己意識もない「精神死」状態にあり、これは「人間の死」ということができる。 この「精神死」状態の完全認知症患者は死なせると殺人になる。 それより知性や自意識がある犬や猫を殺しても罪にはならないし、大量の牛や馬を食べても反省することがない。 何となく釈然としないが。

(10)自己決定権

自己決定健(英語: autonomy)とは、自分の生き方や生活について、公権力から干渉されることなく、自由に決定する権利である。 自己決定権にあたる権利を提唱したのは、ジョン・スチュワート・ミル(『自由論』1859年)などである。 日本では日本国憲法は第13条で、すべての国民は個人として尊重されるとし、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とすることを認めている。 この自己決定権は、例えば、結婚・出産・治療・服装・髪型・趣味など、家族生活・医療・ライフスタイル等に関する選択、決定について、公共の福祉に反しない限りにおいて尊重されることになっている(36)。

自己決定権は法哲学的には自律(autonomy)という概念になるが、これは古代ギリシャに端を発する政治的な概念であり、国や共同体が自分で自分に法を与え、それに従って行動するという「自治」を意味していた。 それをカントが個人の場面へと転用し、「人間が、理性的存在者として自分で自分の行動の規則を決定する」という意味で用いた。 そしてこの自律性概念につきカントは「君の意志の格律がつねに普遍的に妥当するように行為せよ」と次の3つ付帯条件を付けて述べている。

①他人からの命令に従うのではなくて、自分の意志に従って、自由に行動せよ。

②自分の行動指針(格律)を持ち、それに従って行動せよ。

③その格律は、つねに、普遍的に通用するものでなければならない。

このカントの思想は義務論と呼ばれ、自分が何をすべきかを考える場合に、行為の結果を基準にするのではなくて、法的・道徳的義務あるいは動機を基準にして、それに従うことが倫理的に正しい振る舞いであるとする考え方である。 結果がよいからそうすべきだと考えるのではなくて、それが義務だからそうすべきだというように、結果の善し悪しによって行為の倫理的正しさを決めるのではなくて、動機の善し悪しによってそれを決めるべきであるという立場である(37)。  

 このカントの義務論に対して、ベンサムやミルは行為の善し悪しは、正直や誠実といった内在的特質によって決まるのではなく、行為がもたらす結果によって決まるとする功利主義(結果主義)の道徳理論を展開した。 そして倫理性は快楽、友情、知識、健康といった、非道徳的(non-moral)価値の最大化によって決定されるとしている。 (この場合、非道徳的価値とは、芸術、体育、学問といった人間活動の一般的目標であって、道徳的義務のような明確な道徳的価値ではないという)。

 この伝統的な義務論と功利論につき、哲学者上村芳郎はカント主義者の自由が、みずから真理を選びとるという意味での積極的な自由であるが、功利主義者の自由は、他者から干渉されないという意味での否定的(消極的)自由であるとし、現代人が「自己決定権」を口にするとき、それはカント的な意味での「自律」であるよりは、むしろミルのいう他者に干渉されない自由を意味することが多いだろうと述べている(38)。 このミルの解釈は「私の安息死」に関する我々の戦略の正当性に対する強力なバックアップとなる。

5.経営戦略論的考察

1)人それぞれの死生観と生き甲斐

前章第10節で自己決定権につき考察した。 人は生きていくうえでさまざまな精神的・肉体的行動を起こしていくが、その行動にはその人がもつ価値観・人生観が基礎となって影響を及ぼしている。

人生観の一覧表(39)

 このように人々は生きることに対して多様な価値観をもっている。 その多様な価値観の中の一つである自分の価値観を持っている。 その価値観に基づいて命を営み、人生の軌跡を織物のように紡いでいく。 その軌跡は人それぞれの模様を形づくており、それぞれの価値をもっている。 自分が織りなした模様については自分が持つ価値観に基づいて判断する。 その場合、満足すべき部分があればそうでない部分もあるだろう。 この自分が生きた軌跡に満足して「自分の人生でやるべきことはやって思い残すことはない、自分の最後は自分で決めたい」という前出の肺がん患者のように考えることがある。 また、平和な、メメント・モリを忘れた現代社会の「死のタブー化」により、人生の終末に関する心構えが出来ていない者にとっては、死は恐怖と絶望の対象としかならない。

 

人生を精一杯生き、自分なりに満足すべき結果を残した者は、自分の終末の状況を考えて死にたいと考えても不思議はない。 回復可能なガンや完全な認知症にかかって苦痛に苦しんだり、家族に迷惑をかけたり、意識がないままに暴言を吐いて自分の人格を棄損したりするくらいなら安楽死・安息死したいと多くの人間が考えていることは、前出の調査結果で明らかである。 しかし与えられた命を十分に使わず、のらりくらりと生きつづけた者が認知症になったからと言って死ぬことを願っても、安楽に、また(勤労の後に与えられる休息に範をとった)安息死するわがままは認められない。 大変な知的・身体的障害を帯びたり、深刻な経済的苦悩を背負って生まれた子どもが、ハンディキャップを抱えながらも苦労しつつ生き続けて、精根尽きた時に安楽死・安息死を願うのとは全然事情が違う。

 

2)終末期治療における肉体的苦痛と精神的苦悩

第3章でロジェ・マルタン・デュガールの小説『チボー家の人々』のなかで、チボー家の長男アントワーヌ医師が父のオスカル氏の死にゆくまでの壮絶な治療の様子を参照した。 患者の命を1分1秒でも延ばそうとするアントワープ医師の努力には驚嘆すべきもので感動的ではあったが、繰り返し襲ってくるに発作に苦しみ続けた父チボー氏の苦痛を考えるとやるせない気がする。 現在、医療技術の進歩によって患者の苦痛が大分緩和され、その時々の激痛は除去しえても、繰り返し襲ってくる“全体としての苦痛”をあらかじめ除去することはできない(39)。 しかも本稿第1章と第4章で参照したように、末期治療現場における患者の苦しみは、肉体的なものばかりでなく、時にはそれに劣らない精神的な苦しみに懊悩している事情を示している。

末期患者のケアに当たったエリザベス・キューブラーロスは、死にゆく患者の心理過程を、否認-怒り-取引-抑うつ-受容という形で表現し、この研究が高く評価されているようだが、我々素人考えでは、どうせ死に行くのであれば、これだけの体験やプロセスを経なければならない肉体的苦痛と精神的苦悩が死にゆく本人にとってどれだけの価値があるのだろうか。 死に至るまで回復の望みを絶たれて肉体的精神的な苦しみを引きずりながら自分の人生の終末へとすべり落ちていく(40)。 このように苦しみを耐える行為にどれだけの価値や意義があるのだろうか。 筆者などのような医療の現場の事情を知らないアウトサイダーの印象かもしれないが、一般に患者の苦痛について肉体的な苦痛ばかりに焦点を当て、精神的苦痛については大分等閑に付されているような印象を受ける。

前述のように、古代ギリシャでヒポクラテスが「人の命は無条件に尊い」と言っているが、この場合の命とは何を指すのか、肉体か精神か、どちらだろうか。 当然両方だと思われるが、その後の医師や法律家の行為や考え方を見ていると、(素人の目には)どうも肉体の方しか見ていないような気がする。 「私はインフォームドコンセントにより進行性のガンを宣告されています。 恐怖を感じながらなすすべもなく末期に向っています。 安楽死制度があれば、がんばって治療して末期になったら安らかに眠ろう、それまでがんばろう、と考えることもできるのだが。 やりたいことがすべて終わって、意識をなくすまえに安楽死させてほしい」という前述投書者の告白もあり、その他色々な投書で精神的な苦痛を強く訴えて者も少なくない。

精神的な苦しみに対する対策については、欧米諸国の方が緩和ケアの制度が充実しているようである(第2章5節)。 緩和医療では、身体的、精神的、社会的な苦痛の緩和だけでなく、生きる意味や目的の喪失、不条理な苦痛などの精神的・霊的苦痛の緩和が大切とされている。 そのためには宗教家の助けが必要となることから、海外の総合病院や緩和ケア病棟、小児病棟などには宗教学、哲学、精神医学、心理学などの一般教育や、病院での臨床訓練を受けたチャプレンが常駐している。 彼らはキリスト教徒として患者の苦痛に耳を傾け、その苦痛に寄り添う援助を行っており、特に、不安、恐怖、怒り、絶望感、孤独感、虚無感、疎外感などに囚われる患者の内的世界に光をあてて治療している(41)。

わが国でも病院や福祉施設に宗教にかかわらず患者の心の悩みに耳を傾け支援を行うチャプレンが活躍しているが、キリスト教国の欧米とは比較にならない未整備な状況である。 2011年3月の東日本大震災発生後の5月、人々の心のケアのため、宮城県宗教法人連絡協議会により「心の相談室」が開設した。 この心の相談室の事務局を務めた鈴木岩弓氏が、在籍する東北大学において2012年に養成講座が創設し、臨床宗教師の養成を始めた。 この養成講座の開設は他大学にも広がり、龍谷大学実践真宗学研究科や鶴見大学(及び總持寺)でも実施されるようになっている。 2016年2月には、これらの講座を実施する諸機関により、日本臨床宗教師会が発足した。 この養成講座の対象とする宗教者は、僧侶や牧師、新宗教の教師など特定の宗教に限らない(42)。

このような制度的な救済策や直接本人の存在に関わる安息死などの精神的な救済策が持つ意義は少なくないはずである。

3)完全認知症と人格の崩壊

 第2章1項で認知症について検討した。 完全な認知症に陥ると認識能力が欠落し人格が変化する。 一生を通して築き上げた人格を崩壊させ、家族や世間に生き恥をさらすのは、自分の矜持を保つために命を捨てるという考え方をする人が出てきても不思議はない。 キリスト教徒や特定の宗教の信者にとって自ら命を落とすことはできないだろうけれど。

人間の尊厳という言葉があらゆる機会に引用される。 この言葉の背景には人間は他の動物とは違う理性と自意識があるというアリストテレス以来の確固とした信念がある。 しかし完全認知症になり、自分の家族の顔もわからない状態になった時の患者は、はたして人間ということができるのだろうか。 先に考察したように、環境倫理学者シンガーなどは、人間とチンパンジーなどの動物との違いについて伝統的な考え方を否定している。 確かに自分たちの経験でも、ペットの犬などは人間の3歳児の知能があり、自分の名前を呼ばれると尻尾を振るなどして自意識をもっていることを実証している。 認知症になった人間よりこうした動物の方がはるかに知性があるといえる。

脳の機能が完全に停止した「脳死」は、心臓がまだ動いているにもかかわらず、合法的に「死」として認知されている(40)。 認知症の場合脳の一部が破壊されているため意識がなく理性もない。 この状態では人間といえない。 精神の死であり、人間の死である。 我々の研究はこの人間の死を、「脳死」に対比して「精神死」と定義したい。 しかし「脳死」では心臓が動いているといっても死体に近い状態である。 一方、認知症による「精神死」では肉体は十分生気を保っている。 いくらリビングウイルで死にたいという希望があっても、この元気な身体を死なせるのには躊躇せざるをえない。 しかし躊躇を感じるのは医師であり家族という、認知症に罹っている本人ではなく客体である。 本人には意識がないから何も感じない。 さらにそういう状態の時に、本人が死ぬことをリビングウイルで明記したとしたら、医師はそれほど罪悪感をかんじずに致死薬の処方箋を書くことができるはずである。 このような理由から我々は私の安息死研究の対象に認知症を選ぶ。

超高齢社会になったわが国は今後認知症の急増、医療費の増加、介護施設や人手の不足、年金制度の破綻 などの深刻な課題と取り組まなくなります。 この際我々の常識を根底から覆し、抜本的な制度改革を行わなければ立ち行かなくなるのではないか。

6.総括・提案

 第1章から4章にかけて本研究の妥当性につき検討を加えてきた。 第1章において橋田氏の「死なせてください」という言う叫びに関して、文芸春秋の安楽死に関するアンケート調査を参照し、また終末期の患者たちの血の出るような叫びを聞いた。 第2章で安楽死に関する内外の状況を調べ、第3章で安楽死問題解決策の提案をおこない仮説を設けた。 第4章でこの提案の法的、道義的側面に検討を加えた。 第5章で当研究会の経営戦略論的考察を加えた。 このように上記1~5章にわたって検証を行った結果、我々の戦略目標の正当性に関する仮説に一応の確信をもつことができた。 そのため我々の目標達成作戦を確実に実行するための仮説として、次の通りの行動方針・戦術を決めた。

 ①「私の安息死研究」の戦略を実行する主体として「NPO法人私の安息死研究会」を立ち上げる。

②「私の安息死研究」の趣旨、目的、戦略を明確にするため日英2言語の書籍を編集・出版する。

③「私の安息死研究」に同意・参加する研究員を会員として募集する。

④当研究会の私的性格を明確にするため、運営スタッフは全員ボランティアとする。

⑤戦略目標である「私の安息死」の合法的認知を達成する手段として、100万人規模の大勢の会員を集める。

⑥大勢の会員を集めるために求心力となる影響力絶大の方に会長就任を求める。

⑦会員は当法人所定の書式に認知症を対象とするリビングウイルを記入する。

⑧会員受入れの条件としては、今まで自分の人生を精一杯努力して生きてきて、今や思い残すことはなく従容として死を受け入れる安息死の心構えができていることを前提とする。

⑨当法人が行う広報宣伝活動は、研究会活動の趣旨説明と会員募集に限定し、「私の安息死」の一般化や法制化に関する普及・布教活動は行わない。 (このようにして関係諸団体や個人からの非難・攻撃を避ける。 )

?会員募集の目標を2019年度に1万人以上、2020年度以後100万人以上とする。 (100万人以上の会員が「私の安息死」リビングウイルを書けば、それが世間の常識となり、慣習法となることが期待される)

⑪認知症対象の安息死が認知されれば、さらに対象を植物人間状態など意識がなく回復不可能な病気にも適用できるように働きかける。

⑫活動が軌道に乗り、財政的な裏づけができれば、会員のためのセミナー、ワークショップなどの催しを開催する。 また、認知症が予感される会員の心のケアのために臨床宗教師やチャプレンと契約を結んで医療現場へ派遣するなどのサービスを提供する。

⑬財政的な余裕が出来れば、障害者団体、介護施設やその他の福祉&研究団体へ助成金を提供する。

これで本研究を終えるが、超高齢社会になったわが国は認知症を含む老人病が急増する一方で、医療費の増加、介護施設や人手の不足、年金制度の破綻などの深刻な課題と取り組まざるをえなくなる。 この際我々は従来からの常識を根底から覆し、抜本的な制度改革を行わなければ立ち行かなくなる。 このことを考えて、我々は既存の常識にとらわれず自由な発想にもとづいて研究を行う。 わが国は世界の最先端を行く高齢社会であり、深刻な老人病被害社会である。 わが国がこのディレンマをどのように克服するか世界中が注目している。 現状では、オランダの安楽死法がどうだとか、アメリカのバイオエシックス学がどうだとか他国の後追い行動ばかりしているが、この後進国的パラダイムから脱皮して、日本発の安楽死法と理念を確立して、日本型安楽死方式をグローバルスタンダードとして世界中へ普及させることが出来れば楽しい。

参考書類

(リビングウイル宣言書原稿他次頁以降へ表示)

私の安息死リビングウイル宣言書

この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に、私自身の考えで書いたものであります。 したがって、私の精神状態が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または別の内容の文書を作成しない限り有効であります。

□将来私が完全な認知症になって自分の家族の顔も認識できなくなった場合、複数の医師の診断により完全認知症であると判断された時に、喪主の判断により医師の介助か本人の手によって命を縮める処置を取ってください。

□本宣言書を作成するにあたり、私の精神状態が正常である時に、家族や親せきや知人などの関係者と徹底的に相談して安楽死に対する賛同を取り付けた上で、この宣言書を作成します。 宣言書には事前相談に参加した全員の連署を頂戴し、安楽死実施に関する最終決断を行う権限を喪主(または他の関係者)に与えます。

□上記の対象である完全認知症だけでなく、何らかの事情により植物人間状態で意識がなくなった時にも、この宣言が適応します。

安息死と認知症に関する説明

1.安楽死とは、人に苦痛を与えずに死に至らせることである。 一般的に終末期患者に対する医療上の処遇を意味する。 安楽死に至る方法として、積極的安楽死と消極的安楽死(尊厳死)の二種類がある。 積極的安楽死とは、患者本人の明確な意思表示に基づいて致死性の薬物の服用または投与により死に至らせる行為であるが、患者の死期が直前に迫っていなくても実施することがある。 それに対して消極的安楽死(尊厳死)とは、死期が直前に迫っており、まだ余命がいくばくも残っていないことが前提で、その場合にのみ実施するものである。 本宣言書で記載した安息死とは、積極的安楽死の一種である。 日本では消極的安楽死は認めているが、積極的安楽死はまだ認めていない。 当会の会員は、「私の安息死」の社会的認知を得るため努力することを約束する。 なお、本宣言書に基づいて、認知症にかかって死に至る際に医師の協力を仰ぐ場合は、厚生省が2007年に発行した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」“終末期医療及びケアの在り方 ①~③”に基づいて実施することとする。

2.認知症と知的障害

認知症とは認知障害の一種であり、後天的な脳の器質的障害により、正常に発達・機能してきた知能が不可逆的に低下した状態である。 医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群として定義される。 この状態を我々は「精神死」と呼ぶ。 これに比し、先天的に脳の器質的障害があり、運動の障害や知能発達面での障害などが現れる状態は知的障害という。

生まれながら健常な知的・身体的な能力に恵まれた健常者が神聖な自分の命を奪うのはよくないが、「自分の人生でやるべきことはやって思い残すことはない。 自分の最後は自分で決めたい」という肺がんの宣告を受けた患者の祈りには、自分の人生の達成感が表現されている。 この言葉は、「見るべきほどの事は見つ、いまや自害せん」という、壇ノ浦の戦いに敗れ平家一門の運命を最後まで見届けて責任を果たし自害した総帥平知盛が残した辞世の句にも通じる人生の重みを感じさせる言葉である。

この機会に、身体に障害を負い毎日血の出るような努力で障害を克服し人生を切り開いている知的障害者・身体障害者やその家族の崇高な生き方に敬意を表しよう。

注:

1.橋田壽賀子「安楽死で死なせてください」文春新書、2017年8月20日

2.石丸昌彦「生命学入門」放送大学教育振興会、2017年、224頁。

3.立山龍彦「自己決定権と死ぬ権利」東海大学出版会、2002年、47頁

4.厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」、2007年

5.日本尊厳死協会ホームページ、2017年10月

6.土本武司「日本で安楽死論議が進まぬ理由」、産経ニュース、2014年3月

7.朝日新聞デジタル、「尊厳死」法案を考える、田中美穂、2015年

12月

8.立山隆彦、49~67頁

9. 立山龍彦、68~85頁

10. 日本尊厳死協会HP,2017年10月

11. 「安息日」、ブリタニカ国際大百科、小項目事典

12.  みんなの介護 HP,2015年11月22日

13. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事項

14. 橋田壽賀子、181-182頁

15. 加藤尚武/加茂直樹「生命倫理学を学ぶ人のために」世界思想社、2001年、

29頁

16. 石丸昌彦、176頁

17. 石丸昌彦、196年

18. ロジェ・マルタン・デュ・ガール、山内義雄訳『チボー家の人々』白水社、1967年

19. 加藤尚武/加茂直樹、129-132

20. 橘玲、ウェブページ「みんなの介護ニュース」、2017.2.1、読者投稿意見。

21. 今井道夫、103-106頁

22. 石橋孝明「生命の尊厳について」徳山大学論叢第76号、2017年

21. エコノミスト社「死の質(Quality Of Death)に関する調査」、2012年

22. 森岡正博「人間のいのちの尊厳についての予備益的考察」Heidegger Forum、

8巻2014年

23. マルティン・ハイデガー、森孝夫訳「存在と時間」講談社現代新書、2007.7.9

24. 「福祉ラボ~介護のすすめ」ウエブページ、2017年10月

25. AFDウェブサイト、2015年10月7日

26.  NHKスペシャル取材班「老衰死 大切な身内の穏やかな最期のために」

27. 朝日新聞デジタル、「ベルギー選手、異例の会見」2016年9月12日

28. 宇都宮芳明/熊野純彦「倫理学を学ぶ人のために」世界思想社、1997年31頁

29. 宇都宮/熊野、18~20頁

30. 文部科学省HP、新学習指導要領(平成29年3月公示)

31. 向田久美子、「自我同一性~アイデンティティとライフ・サイクル」、小此木啓吾訳編、誠信書房、1973年

32. 森岡正博、「現代文明は生命をどう変えるか」京都:法蔵館、4頁

33. 石橋孝明、2017年76号

34. 今井道夫、103頁

35. 今井道夫、112~114頁

36. 立山龍彦、8~10頁

37. 加藤尚武/加茂直樹、161頁

38. 上村芳郎HP、2017年11月19日

39. 産経ニュース、【正論】日本で安楽死論議が進まぬ理由、筑波大学名誉教授、1004年5月3日

40. 石丸昌彦、162~169頁

41. ジョン・B・カブ、延原時行「生きる権利 死ぬ権利」日本基督教団出版局、37頁

42. 臨床宗教師、ウイキペディア、2018年3月11日

参考文献

1.セネカ/大西英文訳「生の短さについて」岩波文庫、2018年3月5日

2.ハーバート・ヘンディン/「操られる死」2000年3月1日

3.プラトン/納富信留訳「ソクラテスの弁明」光文社古典新訳文庫、2018年2月25日

4.マルクス・アウレリウス「自省録」講談社学術文庫、2018年4月5日

5.モンテーニュ/荒木昭太郎訳「エセーⅠ」中公クラシックス、2014年4月25日

6.ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子訳「夜と霧」みすず書房、2018年4月20日

7.NHK人体プロジェクト「安楽死」1996年5月

8.小野田襄二「生と死―十八歳の証言」2018年4月18日

9.清水哲郎「安楽死問題と臨床倫理」2009年12月15日

10. 加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫、2016年8月10日

11. 神谷美恵子「生きがいについて」みすず書房、2018年4月16日

12. 久我勝利「死を考える100冊の本」致知出版社、2012年11月20日

13. 久坂部羊「人間の死に方」幻冬舎新書

14. 同「日本人の死に時幻冬舎新書」2007年1月1日

15. 長尾和宏「死の授業」2015年2月17日

16. 同「痛くない死に方」2016年12月22日

17. 西村寿行「安楽死」角川文庫1975年8月

18. 中村仁一「思い通りの死に方」久坂部羊共著 幻冬舎新書、2012

19. 同「どうせ死ぬなら『がん』がいい」宝島社新書、2012年

20. 同「しっかり死ぬということ 死は大事な仕事」李白社、2013年

21. 同「朗らかに!今すぐ始めるサヨナラの準」メディアファクトリー、2013

22. 保阪正康「安楽死と尊厳死」講談社現代新書、1993年3月17日

23. 正岡子規「病牀六尺」岩波文庫、2017年9月5日

24. 三島由紀夫「葉隠入門」新潮文庫、2017年6月5日

25. 三井美奈「安楽死のできる国」新潮新書、2003年7月1日

26. 宮下洋一「安楽死を遂げるまで」2017年12月13日

27. 盛永審一郎「安楽死法:ベネルクス3国の比較と資料」2016年6月

28. 同「終末期医療を考えるために-検証オランダの安楽死から」2016年12月1日

29. 吉田満「戦艦大和ノ最期」講談社文芸文庫、2015年7月6日

死生学関連書籍:

「死生学1 死生学とは何か」、島薗 進、竹内整一、2008/5/22

「医療・介護のための死生学入門」」、、清水哲郎、 会田薫子、2017/8/28

「死生学のフィールド」、 (放送大学教材)、石丸昌彦、山崎浩司、2018/3/1

「死生学入門 」、(放送大学教材)、石丸昌彦、2014/3/1

「死生学とQOL」 (関西学院大学研究叢書)、藤井美和、2015/2/24

「喪失とともに生きる―対話する死生学」、竹之内裕文、浅原聡子、2016/4/27

「どう生き どう死ぬか―現場から考える死生学」、岡部健、竹之内裕文、2009/5/7

「臨床死生学: 日常生活における「生と死」の向き合い方」、臨床死生学テキスト編集委員会、2014/6/12

「〈死者/生者〉論 ―傾聴・鎮魂・翻訳―」、鈴木岩弓、磯前順一、2018/3/7

「〈死〉の臨床学: 超高齢社会における「生」と「死」」、村上陽一郎, 2018/3/12

「死生学 4 (4) 死と死後をめぐるイメージと文化」、小佐野重利、木下直之, 2008/9/1

「よく生き よく笑い よき死と出会う」、アルフォンス・デーケン、2003/9/17

「ケア従事者のための死生学」、清水哲郎、島薗進、2010/12

「死生学: 死の隠蔽から自己確信へ」、岩崎大、2015/3/4

「週刊ダイヤモンド」 2016年 8/6 号 [雑誌] (どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ)、2016/8/1

「覚悟としての死生学」、文春新書、難波 紘二、2004/5

「死生学〈2〉死と他界が照らす生」、熊野純彦、下田正弘、2008/12/1

「人文死生学宣言 私の死の謎」、渡辺恒夫、三浦俊彦、2017/11/27

「生と死から学ぶ―デス・スタディーズ入門」、鈴木康明、2000/1/1

「死生観を問いなおす」、ちくま新書、広井良典、2001/11/1

「死生学3 ライフサイクルと死」、立岩真也、井口高志、2008/7/10

「死んだらどうなるの?」、ちくまプリマー新書、玄侑宗久、2005/1/25

「生命(いのち)の問い―生命倫理学と死生学の間で」、大林雅之、2017/10/26

完    

研究会テーマ発表

  1. HOME
  2. なぜ私の安息死研究か
  3. 私の命は私のもの
  4. 自分の命 一人称の死
  5. 安楽死で死なせてください
  6. 肉体的治療と統合的治療
  7. 死の美学

    ~終わりよければすべてよし~

  8. 人間の神と地球の神
  9. 「サピエンス全史」と地球の神
  10. 安楽死研究遍歴の旅
  11. 研究ノート 安楽死合法化の戦略論
  12. 安楽死参考文献
  13. 性悪説で作られた刑法202条