私の安息死研究会

私の命は私のもの

 「私の」は、自己決定権に基く私自身の死で、他人の死ではないという意味です。

「安息死」とは、一生懸命自分の人生を生きて思い残すことはない、今はただ休息したいという意味です。

「私の安息死」の英文名称:My Saddath Death

 

文芸春秋安楽死アンケート

2017年3月号の文芸春秋編集部が「大特集 安楽死は是か非か」というタイトルの編集を行って、著名人に対して安楽死に関するアンケート調査を行いました。 その特集の中で、脚本家・橋田壽賀子氏が『安楽死で死なせてください』というタイトルの対談を行いました。 その後ジャーナリスト橘玲氏が「みんなの介護ニュース」に掲載された特別寄稿『日本人の7割以上が安楽死に賛成しているのに、法律で認められていない理由とは?』のコピーをウエブページで公開したところ、直ちに100人以上の読者から意見が投稿されました。 その一部を次に紹介します。

生まれて初めて心の底から、「もう旅立たせてあげて下さい。 」と願い、祈りさえしたのは、10年に渡る癌治療の苦痛に呻き続ける末期癌の母を目の当たりにした時でした。 癌治療(放射線・手術・抗癌剤)で、内臓も骨も皮膚もボロボロ。 助かる可能性は全く無く、急速に進行する症状の痛みは増し続け、皮膚を侵食し広がり続ける癌傷からの出血も止まらない。 最期の数ヶ月はホスピスでお世話になり、ほんのわずかな間、食事が取れ会話も出来たのはせめてもの救いでしたが、他界する数日前には、リンパ節転移していた片脚の骨が砕けており、意識がなくなる程の強い鎮痛剤を投与しても最期の最期まで、表情から苦痛が消えませんでした。 医師に安楽死できないかと問い、申し訳ないと断られた時の失望感も、今なお鮮明に残ります。 この時初めて、どうか失血死を迎える前に旅立たせて下さいと、本気で祈りました。 意識無く呻き続ける母の喉元に、手を伸ばし掛けた事もありました。 旅立ちの時には立ち会えませんでしたが、母親を喪った哀しみよりも、安堵と感謝の気持ちが先立ちました。

今年、還暦を迎えるがん患者です。 今、厳しい選択の上にいます。 治療を続けるか、もしくは治療を全て断り、残された日を自分らしく生きるかの選択です。 がんは再発を繰り返す病気です。 治療を何度も続けると、体に後遺症が残り、介護なしに生活できなくなります。 同い年の妻とも何度も話し合いました。 私は、これから先、治療を続けて生き永らえたとしても妻に、ずっと世話になるのは申し訳なく思ってます。 長年、寄り添い、愛してきた妻です。 苦労を掛けたくありません。 しかし、治療を断ったとして、着実に衰えて来る体とどう向き合うのか、増大するであろう痛みに耐えて正気を保って行けるのか、自信が持てません。

私としては、自分らしく生きて、身の周りの事や判断ができる間に、自分の死も決めれたらと思ってます。 居なくなって寂しい、悲しいはいずれ、時が解決してくれます。 迷惑や実害が継続しません。 多分その方が、周りの人のためにも良い事だと思っています。

肺癌を患い、苦しみながら祖父が先日亡くなりました。 生前、最後に会ったのは病院でした。 息は荒くゼエゼエと呼吸が思うようにできずに苦しんでいました。 水を飲むことも医者には禁止され、唇を少し湿らせるだけ。 まだ、そこまで症状が重くなかったときには「安楽死をさせてくれればいいのに」と見舞いに来ていた祖母と母、私と弟で話していました。 苦しいからこそ、祖父は私たちに「体には気を付けろ」と、繰り返し言いつけていました。 気の難しい、昔ながらの人でしたし、何より自営業で仕事に生きた人でしたから、病気になって入院という事にかなり落ち込んでいました。 病は気から、その通りだと思いました。 酷くなる、その前に自分で自分の死に方を選べたのなら、その方がずっとその人のためだと思います。 私の心残りは、無責任にも病で苦しんでいる祖父に「またね」と言い、それを生前に果たすことができなかったことです。

母も叔父も叔母も認知症で、本人は何もわからないままに恥だけを垂れ流し周りに迷惑をかけ続け、亡くなった時はみんなに喜ばれ・・・。

そんな終わり方は絶対に避けたい。 それまで頑張って生きてきても、痴呆だった最後だけがみんなの記憶に残る・・・。 生きる権利があるなら死を自分で決める権利も認めてほしい。 安楽死早く法制化してください。

「命はあなたのものだけでない」というのも理解はできるけれど、身体の苦痛も精神の苦痛も本人だけのもので、誰も取って代わることができない。 それならどれだけ辛く苦しいのかも他の人には分からないから、どうして死にたいなんて考えるのかっていうのも他人の知るところじゃないはず。 全てを理解できないうちにそんなこと言って欲しくない。

安楽死賛成。 自分の人生でやるべきことはやって思い残すことはないので自分の最後は自分で決めたい、自分の人生なのに関係のない他人にとやかく言われたくない!

どんなに苦しく辛くても安楽死という選択ができないのはおかしい。 もし家族や友人が殺してくれ死にたいと泣いて助けを求めるなら、おれは殺人鬼になってやる!苦しみ続いて死んでゆけ、なんて残酷なことは言えない。

見えない障害を持つ身として言わせていただきますが、「人の苦しみは人のもの」これが真理です。 経験したことのない苦しみについて他人が首を突っ込んでどやかく言うことは人権蹂躙です。

安楽死、賛成です。 この世に産まれてくるのは自分の意思ではないけれど、皆それなりに頑張って生きています。 だから、自分の最期は自分の意思で選べても良いのではないでしょうか。 暴れたり徘徊したり、寝たきりの老人を支える人材もお金も、我が国では枯渇しています。 痛みや苦痛で苦しむ病人やその家族は毎日生き地獄です。

私は将来、一人息子に介護をさせたくないです。 安楽死を承る会社を起業したいと思ってましたが、狂人扱いされるかと思い誰にも相談できませんでした。 今回たまたまこちらの報告に辿り着き、安楽死の賛成者がたくさんいらっしゃるので安心しました。 どうしたら立ち上げられるのでしょう。

73歳の男です。 私も以前から安楽死に賛成です。 もう充分に生きて思い残すこともあまりありません。 なにより、自分の最後は自分で決めたいと思っています。 一部の人道主義者と称する人たちが反対しているようですが、他人の死についてどうこうするのは尊大すぎます。 自分のことは自分で決められられる人に指図すべきでもありません。

高齢者医療に苦慮している公共団体や医師会が一部の反対を恐れて黙っているのは卑怯な態度だと思います。 自分のことは自分で決められる社会を望んでいます。

私はインフォームドコンセントにより進行性のガンを宣告されています。 恐怖を感じながらなすすべもなく末期に向っています。 安楽死制度があれば、がんばって治療して末期になったら安らかに眠ろう、それまでがんばろう、と考えることもできるのだが。 やりたいことがすべて終わって、意識をなくすまえに安楽死させてほしい。 そのとき家族にさよならを伝えて死にたいです。 急に事故死したり、突然息を引き取ったり、何も言えないまま死ぬことはやっぱり悲しいです。

2006年に京都市伏見区で起きた、認知症の母を殺害し自分も自殺しようとした男性の殺害心中事件、ご存知ですか?たとえ死期が迫っていなくても家族に迷惑をかけずに逝かせて欲しいと願う気持ちはよくわかります。 わたしは、たった一人しかいない子供に、自分の介護のせいでこの男性のように子供の人生を壊すことは一切望みません。 安楽死させてくれないならば自殺を選びたいと思ってしまうでしょう。 だからこそ、きちんとした法律を作って安楽死も認めて欲しいと思う。

 以上のように長い間重病に苦しまれてきた患者やそれを介護する家族などからの悲痛な叫びに関して余分な説明は要らないだろう。 「きちんとした法律を作って安楽死を認めて欲しい」という最後の寄稿者の願いにつき、次章以下で本当に安楽死の合法化はできないのか検討したい。

研究会テーマ発表

  1. HOME
  2. なぜ私の安息死研究か
  3. 私の命は私のもの
  4. 自分の命 一人称の死
  5. 安楽死で死なせてください
  6. 肉体的治療と統合的治療
  7. 死の美学

    ~終わりよければすべてよし~

  8. 人間の神と地球の神
  9. 「サピエンス全史」と地球の神
  10. 安楽死研究遍歴の旅
  11. 研究ノート 安楽死合法化の戦略論
  12. 安楽死参考文献
  13. 性悪説で作られた刑法202条