なぜ私の安息死研究か
私はNPO法人「私の安息死研究会」の理事長をしている者です。。
私は昨年9月に「認知症を対象とし、自己決定権に基づく安息死(積極的安楽死)」の研究を目的として研究会を立ち上げた。 私たちの研究の目的は、現在非公認の積極的安楽死の合法化にある。 私たちの今までの1年半の研究の結果、わが国社会で常識化している「死のタブー視」の環境のなかで、人間の命が終末まで長らえるのを手前で止めて死なせることに対して、強い抵抗があることを実感した。 もし医師が患者本人や家族の願いに応じて患者に注射をして死なせると、刑法第199条の及び202条の自殺ほう助罪に問われて有罪となる。
このため回復の可能性がない末期のがん患者が苦しくて死なせて欲しいと願っても、死なせてくれる医者や第三者がいない。 塗炭の苦しみに喘ぎながら最後の一瞬まで苦しみながら命を終える患者が医療の現場に大勢いる。 医者は職業上の使命から患者の命を最後の一瞬まで救おうと努力する。 現在では医療技術の進歩により、死にかけた命を伸ばすことができる。 延命治療である。 しかし現在延命治療を拒否する意思を患者本人が事前指示書で明示しておけば、合法的に死ぬ、すなわち安楽死することができる。 この死に方を消極的安楽死という。 しかし、例えば回復見込みが全然ないすい臓がんのような病気でも、余命が2カ月も半年もある場合は安楽死はできない。 このような安楽死は積極的安楽死と呼ばれ、合法化されていない。 もし医師が患者本人の希望で注射して死なせたとすると、医師は自殺ほう助罪で有罪となる。
参考までに、次はがんを宣告された患者の訴えである。
「私はインフォームドコンセントにより進行性のガンを宣告されています。 恐怖を感じながらなすすべもなく末期に向っています。 安楽死制度があれば、がんばって治療して末期になったら安らかに眠ろう、それまでがんばろう、と考えることもできるのだが。 やりたいことがすべて終わって、意識をなくすまえに安楽死させてほしい。 そのとき家族にさよならを伝えて死にたいです。 急に事故死したり、突然息を引き取ったり、何も言えないまま死ぬことはやっぱり悲しいです」。
このような状態にある患者は、肉体的な苦痛の他にそれに倍する深刻な精神的苦痛をしのばなければならない。 私は世の中の医師や法曹関係者がこうした患者の精神的肉体的な苦しみをどうして共感できないのか不思議でしようがない。 どうして助けてやろうという人間が持つやさしい気持ちや良心を持たないのか不思議である。 我々は1年半にわたり安楽死の問題を研究してきた。 そして専門家同士の神学論争により死の定義について明確な合意できていないにことや、政治やビジネスの世界で起きる犯罪に備えて性悪説で構成された刑法を、善意で患者を助けた医師などを悪意に解釈して有罪にするなど、強引に悪用している矛盾を確認した。 このため我々の安楽死研究では医療や法曹や人権関係者などの専門家集団をバイパスして、本来の目的に焦点を合わせ、理屈に合わない雑音を無視することにした。
人間の命を支える食物を取り入れる歯の寿命が60年で、現在の我が国民の平均寿命が80歳前後であるということは、この高齢者は賞味期限の切れた欠陥商品と同じで、この人たちに老人病が多発するのは自然現象だということになる。 最近新たに問題になっているのは、現在450万人も居るといわれる認知症患者である。 次のような訴え(投書)に目を向けてみよう。
「母も叔父も叔母も認知症で、本人は何もわからないままに恥だけを垂れ流し周りに迷惑をかけ続け、亡くなった時はみんなに喜ばれ・・・。
そんな終わり方は絶対に避けたい。 それまで頑張って生きてきても、痴呆だった最後だけがみんなの記憶に残る・・・。 生きる権利があるなら死を自分で決める権利も認めてほしい。 安楽死早く法制化してください」。
完全認知症で自分の配偶者や最愛の子どもの顔も分からなくなった認知症の患者は、死にたいと思っても意識がないから自殺もできない。 このため自分が認知症になったら死なせて欲しいという遺言者(リビングウイル)を書いておいても、頭がおかしくなって「精神死」状態になっても、通常肉体は健康だから死なせるわけにいかない。 脳死は精神死であり、人間死と認められている。 そのため臓器移植は合法的である。 完全認知症も間違いなく精神死である。 したがって人間死となってもよいはずであるが、現状では公認されないだろう。 しかし自殺・自死は無罪である。 リビングウイルがあって、認知症になったら死にたいと明記して、自力で死ねば自死で、無罪である。 しかしだれかが助けたら。 刑法202条に自殺ほう助罪に当たる。 医師が助ければ、自殺ほう助罪で有罪となり、医師免除は没収される。
しかし次のようなシチュエーションを考えればどうだろう。 引退した医師が認知症患者を死なせたとすると、有罪となり、医師免許は没収される。 しかし引退医師にとって何ら実害はない。 何年間は刑務所に拘束される判決が出るかもしれないが、、本人の自死への意思表示があり、大勢の同情者が医師の善意を主張して弁護をすれば、執行猶予が付くだろう。
以上のような論理に基づき、もう一つの前提条件を設けて、我々は安楽死合法化への運動を開始することにした。 その前提条件とは、次の4点である。
1.生死の問題はあくまでも個人により様々な見解があり、個人の判断は尊重されるべき性質のもので、他人が干渉すべきではない。 すなわち個人の自己決定権を尊重する。 このため研究会の名称を「私の安楽死研究」とする。
2.同じような論理から、我々の運動は安楽死の合法化を求めるが、法制化/一般化は求めない。 個人個人の意見を尊重して、判決を通して個別的に合法化への道を探る。
3.世間の「死」に関する道徳的、倫理的常識が安楽死の合法化の障壁となっているので、我々の見解に同意する仲間・賛同者をできるだけ大勢集めて、「数の力」を味方にして、広報活動により世間の常識へ影響を与え、安楽死に対する評価を好転させる。
4.アリストテレスたち哲学者は、人間を動物たちから分けるのは理性と自己意識の存在であると規定している。 認知症患者には理性(知性)も自己意識も無い。 そうであれば認知症患者は動物であって人間ではないということになる。 人間は牛や豚などの動物を殺して食べるが、罪にはならない。 動物並みの認知症患者を死なせても、罪にはならないはず。 これを図式すると次のようになる。 認知症=精神死=動物⇒動物死⇒無罪 cf. 脳死=精神死=人間死⇒臓器移植⇒無罪
我々は、死にたくても死ねない末期の病床で苦しんでいる方々に救いの手を伸べたいと考える。 また、人生のなかで精一杯生きてこれ以上思い残すことがない、後は安静に死にたいと願う方々に集まっていただいて、一緒に有意義な死に方や生き方について意見を交わしたいと考える。