私の安息死研究会

安楽死で死なせて下さい

脚本家橋田壽賀子氏が文春新書で 『安楽死で死なせて下さい』というタイトルの書籍を昨年八月に出版して、 日本国中で大変な反響を呼んだ。

同氏の発言に触発されて、筆者は以前読んだフランス人小説家ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を読み返してみた。 そのなかでチボー家の長男アントワーヌ医師が父のオスカル氏の末期の四日の間一生懸命介護する様子が克明に描かれている。 このアントワープ医師の少しでも命を延ばそうする努力と医師としての義務感の強さに筆者は尊敬の念を感じえなかった。 古代ギリシャの医師ヒポクラテスは神に対して「人の命を奪ってはいけない」など三か条の誓いを立て、この誓いはその後二千年以上も医療関係者の守るべき指針となってきた。 このためアントワープ医師は何の迷いもなく父の命を少しでも延ばすべく努力した。 しかしこの苦闘記を読み終わった後、筆者はチボー氏本人が命を閉じるまで味わった身を割くような苦しみは何のためだったのか、彼は死んだ後で盛大な葬式の他に何を残したのだろうか、という疑問を禁じえなかった。


ニーチェ

Quality of Life : QOL

医療や福祉の分野でよく聞かれる言葉にQOL、日本語で生活の質とも生命の質とも呼ばれる言葉がある。 生命の尊厳と言う言葉もある。 チボー氏の末期の苦しみについて筆者のような無神論者は、命の質や尊厳をどう考えればよいのだろうか。 キリスト教が支配した中世から「神なき時代」の近世へ入って、ニーチェは「無」の哲学、ニヒリズムを提唱した。 彼は(積極的)ニヒリズムとして一瞬一瞬を一生懸命生きる生き方を説いた。 実存哲学者ハイデガーは、人間を死への存在と規定し、人間は自分の死に直面するとき、生きていることの素晴らしさ、一度きりの人生の重みを自覚し、“本来的な生き方”を認識すると言っている。 これに関連して、スイスの心理学者ユングは、人の死に対する態度には二つの方向性があるとして、一つは、自分の死を恐怖する態度と、逆に早くから死ぬ覚悟のできている従容とした態度とを指摘している。 後者の場合、老年期になっても生き生きと生きることができるが、出来できていない人は死を恐れながら死んでいくと説明している。

昔は何世代もの家族が一緒に暮らし、村落共同体のなかで個人的なつながりが強かった。 人々は子どもの時から親族や知人の死に出会い、死の苦しみ悲しみを体験した。 中世ヨーロッパでペストが猖獗を極めた時代によく使われた「メメント・モリ」というラテン語の言葉があるが、自分が必ず死ぬことを忘れるなという意味の警句である。 現在では核家族で医療技術や病院などの制度が充実しているため人々は死の場面に遭遇する機会が少なくなった。 このためジャンケレヴィッチなどの生命倫理学者が言う死のタブー化や囲い込みにより、死に直面した時の現代人の衝撃はさらに深刻となった。


平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)

昔は戦争や飢饉などのため人間は若くして死んだ。 現在は医療技術の発達と豊富な食料のため80歳を超える超高齢社会となった。 長生きにはなったが、人間は所詮最後に病気で苦しみながら死ぬ運命にある。 末期の苦しみを除くため薬剤を使った緩和ケアを行ったり、末期の患者の苦しみを除くため尊厳死(消極的安楽死)を認めている。 しかし肺ガンの告知を受けた患者で余命が半年も一年もある場合、患者の精神的苦しみを除くための安楽死(積極的安楽死)は認められていない。 それが橋田氏の「安楽死で死なせてほしい」と願う理由である。

外国には安楽死を認めている国がある。 オランダやベルギーやアメリカのいくつかの州で合法化している。 2001年11月、アメリア人のブリタニー・メイナードさんがオレゴン州安楽死法に基づき安楽死し、その安楽死の状況をインターネットで公表したので大変な話題となった。 わが国でも一般に安楽死は禁止と信じられているが、合法的に安楽死する方法がある。 今年、実存哲学者西部邁(にしべすすむ)氏は妻の死、自身の老い、日本現代への絶望を理由に多摩川で入水して安楽死した(文芸春秋今年3月号)。 自殺は犯罪ではなく、刑法には触れないので、彼の死「自裁死」は合法である。 平家物語のなかで、壇ノ浦の戦いに敗れ平家一門の運命を最後まで見届けて責任を果たし、「見るべきほどの事は見つ、いまや自害せん」という辞世の句を残して総帥平知盛が入水して果てたが、この知盛の安楽死は現代で起こったとしても無罪で、その見事な死に方は「荘厳死」または「安息死」と呼ぶべきであろう。 ただし、現在、医者が注射をして患者を死なせれば、刑法199条の殺人罪か202条の自殺ほう助罪で有罪となる。


認知症
疾患の詳細
専門的な情報
メンタルヘルス
厚生労働省

話が変わるが、現在わが国で認知症の患者数が450万人以上に達し、2025年にこの人数が700万人を超えると厚労省が推計している。 軽度認知症者(MCI)の400万人を加えると1300万人を超え、65歳以上の高齢者の3人に1人が認知症患者とその予備軍となるという憂鬱な推計がある。

現在では「脳死」が人間の死と認められて、心臓が動いていても体内から内臓を摘出しても罪にならない。 脳の機能の一部に損傷があり完全認知症者になり家族の顔も分からなくなった者は記憶も知性も自己意識もない。 しかし犬や猫は人間の3歳児程度の知性があり、名前を呼ぶと尻尾を振ったりして自己意識があることを示している。 ギリシャのアリストテレス以降人間は理性と自意識において他の動物とは違う一段上の存在とされ、人の命の尊さが社会のすべての規範となってきた。 しかし近年の脳生理学の研究の結果、人間と動物の間の差が曖昧になり、オーストラリアの環境倫理学者シンガーは、チンパンジーなどの高等動物はパーソンだと言っている。

脳死が精神の死であり人間の死であれば、認知症も精神死であり人間死である。 したがって認知症患者を医師が注射で死なせても、理屈では、「殺人」にはならない。 さらに、遺言状(日本尊厳死協会版「リビングウイル」)に認知症になったら死なせてほしいと本人が元気な時に明記しておけば、医師も合法的に安楽死をさせることができるはずである。

現在の超高齢社会のわが国では医療費の増加、介護施設や人手の不足、年金制度の破綻などの深刻な課題と直面している。 本人が死にたいと願い、家族に迷惑をかけ、国の財源に負担をかけながら、ゾンビのような非人間的生き方をするくらいなら「安息死」したいと願うのは橋田氏だけでなく、筆者も同じ思いである。

最後に、専門家でもない筆者が生死の問題を論ずるのは僭越かもしれないが、死に行く人間の当の本人である自分自身は第三者の批判を気にする理由はない、と考えて投稿する決心をした。

研究会テーマ発表

  1. HOME
  2. なぜ私の安息死研究か
  3. 私の命は私のもの
  4. 自分の命 一人称の死
  5. 安楽死で死なせてください
  6. 肉体的治療と統合的治療
  7. 死の美学

    ~終わりよければすべてよし~

  8. 人間の神と地球の神
  9. 「サピエンス全史」と地球の神
  10. 安楽死研究遍歴の旅
  11. 研究ノート 安楽死合法化の戦略論
  12. 安楽死参考文献
  13. 性悪説で作られた刑法202条